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三谷龍二 + 皆川明 + 山本忠臣 + 井出幸亮 司会:菅野康晴
菅野:
「六九クラフトストリート」は三谷龍二さんを中心にはじまって、今年で6回目になります。一昨年からここ「ミナ・ペルホネン」さんの「mm(ミリメートル)」という会場で、展示と連続トークをするようになりました。
今年は「日用美品」というテーマです。それを受けて出展者が、普段使っているもののなかから選んだ3点が展示されています。それぞれに出展者の書いたキャプションがついています。
「日用美品」というテーマは、皆川明さんの提案です。「日用美品」とは、「日用品」に「美」という言葉を加えた造語です。これまでのトークで「日用品とは何か」「日用品と日用美品とのちがいは何か」、また「日用品における美とは何か」という話がなされていて、とてもおもしろく聞いています。
三谷:
こんにちは。この六九クラフトストリートでお店を出したり、展覧会やトークショーをやることで、作家や使う人の気もち、それを紹介するギャラリーの思いなど、それぞれを知ることができます。そのようにして相互に理解できるものが増えると思うんです。それがこういう企画の必要なことかなと思っています。
日用品には、ポジティブな「生活を楽しもう」という、ある種の明るさがあると思います。でも、毎日の生活では、そうじゃないものもたくさんある。だからこそ、より良い生活をしたいという気もちは、人間にとって、とても大事なことだと思います。
今回、僕が選んだものはいくつかありますが、カゴも選んでいます。シェーカーデザインのカゴを現代になって作ったものですが、素材は竹ではなく、メープルという木材を薄く裂いて編んであります。丈夫で、とても優れた手仕事です。
私はカゴが好きで、よくもち歩いています。カゴは、本当に古い時代から世界中にありますが、使いやすく、美しいので現在も変わることなく使われていて、工芸品の優等生だと思います。どうしてカゴは現代においても変わることなく使い続けられているのかは、日用品を考えるうえで、とても大事なことを教えてくれていると思います。
皆川:
皆川明と申します。今回のテーマ「日用美品」とは、先ほど4回目のトークショーで話していて、自分のなかでも「そういうことだったか」と思ったんですが、日々くりかえし使って喜びが絶えないもの、ではないかと改めて思いました。そして「喜び」の有無が日用品と「日用美品」との境界線かな、と。
自分が出したのは、1933年にアルヴァ・アアルトがデザインしたアルテックのスツール60と、お皿が重なっている状態です。ひとつひとつのデザインではなく、重なっている状態が日常の景色としてあって、そこに喜びを感じています。あとはガラス作家のピーター・アイビーさんのガラスと木枠のお重です。これは、ハレとケを両方受け止める器として大事にしているものです。
山本:
「ギャラリーやまほん」の山本忠臣です。僕が出展した3点は、個人的にではなく、家族で共有して使うものを選びました。ひとつは、ギャベという敷物です。もうひとつが、掛け軸をかける自在鉤です。もうひとつが、家族それぞれの名前を書いたシェーカーチェアです。
今回は自在鉤の話をしたいと思います。最近は床の間のない家が多いですが、僕は自宅に床の間を作って、ものを飾っています。自在鉤は、掛け軸の長さを調整するための金具で、名古屋の長谷川清吉さんという金工作家が作られています。銀製で、セミの彫りものが上についています。そういう小さなものから伝わることが、じつはすごく大きいと思って選びました。
井出:
井出幸亮(こうすけ)と申します。僕はフリーランスの編集者として、書籍や雑誌を編集したり、執筆しています。今回、僕が出したのは本とレコードとおもちゃですが、先ほどの皆川さんの言葉をお借りすれば、自分に喜びを与えてくれるものであり、生活必需品であると思っています。じつは、展示してあるレコードジャケットが裏面になっていて……
会場:
(笑)
三谷:
すみません、直します。
井出:
レコードジャケットは、1970年代初頭ぐらいの大阪のフォークグループのものです。ダブルジャケットで、紙の質感もすごくいい。そして表ジャケットに文字が一切ないんです。こういうのは意外と少ないんですよ。家のレコードを探していったら、1970年代前半ぐらいで、そういうものがほとんどなくなっている。70年代半ば以降なると、アルバム名やアーティスト名が必ず入って、時には本人がそのジャケットに登場するのが当たり前になっていきます。
もうひとつはジャイロスコープという、子どもが遊ぶためのコマです。これは日本では地球ゴマという名前で発売されました。僕が展示したのは30年代ぐらいのものです。箱には飛行機とかの楽しいイラストが描いてあるだけで、メーカー名や商品名は一切書いてありません。
今は商品名とか宣伝文句がすごく多くて、何も書かれていないものは、どんどん少なくなっているんじゃないかと思います。毎日見るものから、いろいろしゃべりかけられるのは、ちょっとうるさいと思って選びました。
三谷:
菅野さんも選者のひとりだから、選んだものの説明をお願いします。
菅野:
はい。恵比寿にある「アンティークスタミゼ」の吉田昌太郎さんがデザインしたホーローのカップと、焼きものの碗は塚本誠二郎さんというキャリアの長い陶芸家が作ったもので、20年ぐらい前に買いました。もうひとつが、戦前の物資が窮乏した時代に、再生紙を型取りして作られたそば猪口形のコップです。どれもふだんは会社の机に置いてあって、ホーローのカップには付箋、塚本さんの器には輪ゴム、紙のコップには消しゴムなどを入れています。
先ほど三谷さんから、カゴは時代や地域に関係なく作られ、使われていて、それが魅力だと。
三谷:
その土地の材料を最大限に生かして作られていると思うんです。やわらかい素材でも、メープルのような堅い木でも、それぞれに具合が良い。松本には昔から、細い篠竹というのがあって、篠竹で作ったものが名産になりました。その土地のものが、そこで必要とされるものに変わっていく。身近な素材を自分たちの暮らしに生かすという伝統は、世界中にあるんですけど、日本はことに豊かだと思います。
今の時代は流通が整って、身近な素材にこだわらなくてもいいんですが、基本的には身近な素材を生かしていくことが大事です。たとえばアイヌの人たちは鮭の皮まで衣服に使っていたのを見ると、人間が自然素材を生活に生かす、その気もちとエネルギーはすごいなと思います。そして、それが今にいたる生活品のベースになっているとも思います。
皆川:
ここ数年、生活工芸とは、民芸とはなんだろう、手仕事と工業製品のちがいはなんだろう、ということを話す機会が多かったと思います。結局のところ、ものは人の暮らしにどう作用するのか、人は何を求めてものを得ているのか、そういう議論をしていくことが大事ではないか。何か結論を導くというよりも、対話を重ねることが、作り手や使い手のものの見方を作っていくんじゃないかと感じました。
「日用美品」について今日交わされている言葉は、ものについて話しているようで、じつはものから受け取る感情のようなことがたくさん話されています。
思考からものを生み、ものから思考を得る、その循環が人の暮らしにとって重要で、豊かなことです。それは手仕事か機械かというプロセスが問題ではないし、古いか新しいかということでも、無名性か有名性かでも語れない。正解を求めない、こういう会話を重ねることは、とても有意義だなと思います。
井出:
たとえばアナログレコードは温かみがあるというけれど、完全に工業製品です。だから、工業製品か手仕事かではなく、人がそこに込めた気もちが大事なのではないか。良いものを作ろうと思って作られたものは、何か伝わるものがあるのではないかと思います。「日用美品」に感じたのは、そういうことです。
菅野:
井出さんは、今の暮らしでくりかえし使うのはスマホやiPadかもしれない、それも十分日用品であり得る、と3回目のトークで話していました。それに対して皆川さんは、日用品であるということは、触れる回数や時間だけではないのではないかと。
皆川:
日用品というより、今回の「日用美品」についていえば、どのくらいそのものと感情の交換をしているかという度合いが大事で、時間と頻度では測りきれないことがあるだろうと思うんです。もちろんiPhoneやiPadを否定するところではなく。先ほどの思考と物質の循環、そのやり取りが重要だと思っています。
井出:
おっしゃるとおりだと思います。スマホは日用品かもしれないが「日用美品」ではないのかもしれない。
皆川:
僕は「日用美品」から外す必要はないと思っています。
皆川:
はい。何を良きものと感じるか、人それぞれだと思います。「美」という価値は、常に相対的なもので、ある文化や文脈のなかで機能するものだと思いますし、自分自身も今まで見てきたもの、聞いてきたもの、出会ってきたもののなかでできた価値観のなかで、美しいとか美しくないとか感じているだけのことに過ぎません。
去年ここでトークした時に、文化人類学者の方にうかがった話をしました。彼はマリとかブルキナファソとか、西アフリカの人類学の研究をしていて、そこの人たちは白という色が生活のなかにない。白いものが何もないので、白がベーシックな色だという感性そのものがないんです。われわれは絵を描くとき、白い紙やキャンバスに描きます。白がニュートラルな色だと考えているんですけど、彼らはそういう発想がそもそもないわけです。そのように僕らが当たり前と思っている価値とは、まったくちがう発想をもっている人たちもたくさんいるわけですね。
だから、僕は皆川さんがおっしゃったことはよくわかります。自分にとって良いと感じられるだけのことで、ほかの価値観を否定するつもりは全然ないです。みんなそれぞれ、こういうものに「美」を感じるんだなぁと、すごく多様だし、すごくおもしろいなと思って聞いていました。
皆川:
ちょっと前まで、車とか洋服とか、外に出て人の目に触れるものに対する関心が強かったけれど、90年代以降はどうでしょうか。音楽を含めて、自分の家で、自分のために時間やお金を生かす人が増えているように僕は感じます。実際はどうなんですかね、この世のなかは、今。
三谷:
特別なものには刺激があって、そこから元気をもらう、みたいな時代があったけれど、あまりにもそこを行き過ぎたので、日常に帰ってきた。今はその日常に、竹俣君のスプーンのような、少しだけハレを取り込む、みたいな意識があると思うんです。
皆川:
具体的であることは記憶に直結しやすいと思うんですけど、日常を求めるということは、自分の暮らしを具体化するということかなぁ。今、お話を聞きながら、特別なことはわかりやすいけど、日常的な喜びは、おいしい空気みたいな感じ。目に見えない良質さが、日常の幸福感じゃないかと思いました。
「あの時のあの匂いだ」という記憶は、とっても強いものです。毎日ルーティンで使っていて、何気なく日々のなかにあって、でも、ずっと残り続けているものは、特別だという感情はなくても、振り返ったときに自分はこういう景色のなかにいたという香りや空気のような思い出し方をするんじゃないかと、今、三谷さんの話を聞いて思いました。
三谷:
基本的に日常は、わりと退屈なもんじゃないですか。だから新鮮さとか、気もちがいいとか、そういったことが普段の暮らしのなかではすごく大事なことだと思います。それが日用品のなかや、それを作る人間の気もちのなかに、たくさん入っていると思うんです。それは自分のものづくりでも大事にしています。
皆川:
たとえば「このコーヒーカップ好きだな」「あそこで見つけたな」「ずっと使っているな」という、ものから得る喜びは大事で、だから大切にしていこうと思える。「日用美品」とは、やはり物性をいっているのではなく、大切にするという気もちではないかと思います。
三谷:
菅野さんが例を出した川上弘美さんの文章があって、彼女は、昔は景品でもらったお皿を使っていて、今はパートナーが骨董好きで、江戸時代のものも日常で使っているけれど、それが等価だというんですね。僕はそれを読んで、彼女が安易に「美」に取り込まれないようにしているのではないか、器の美ではなく、ものと自分の関係性を一番大事にしているのではないか、と感じたんです。
ものを作っていると「美」に収斂されやすいけど、そういう「美」は強すぎたり、人までも押しのけるようなところがある。おそらく彼女は、自分はここにいて、ここにあるものと等価に関わることが大事だ、と言っている。僕はそう解釈したんです。その時の彼女にとっての美しさは「ここにあること」だと思いました。
皆川:
そうですね。川上さんが書かれているのは、すごく個人的な、ものと自分との関係ではないかと感じました。そこに家族とか他人の存在はないと思うんです。ひとりでいる時と、何人かいる時では、ものへのアプローチの仕方が変化するんじゃないでしょうか。
僕は自分のギャラリーで、白い空間のなかで器を無機質に見せるという展示のやり方をここ18年間やってきました。器が展示台からわたっていく先には、それぞれの家庭の景色があります。だから、たとえば古いガラスケースに入れると器はかっこ良く見えるかもしれないけど、自分の家に置いた様子を想像してもらいたい。
僕も等価という考え方は、ある点ではできますが、誰かとものを共有するときにも果たして同じかどうか、と思いました。
菅野:
三谷さんは川上さんの文章を読んだとき、器作家としてどう思いましたか?
三谷:
かなりショックでしたよ、やっぱり。
会場:
(笑)
三谷:
景品でもらったものと、自分たちが力を入れて作ったものが等価と言われるわけですから。でも、この感覚はすごく大事だと思ったんですよね。ものづくりは、つい思いを入れ過ぎるところがあって。骨董もそうですけど、使う側にちょっと鬱陶しさを与えるじゃないですか。だったら景品の方が気もちが軽くていい。作家は、そういうことを理解してやっていかないと、使う人の気もちとすれちがってしまうことになりかねない。日本の工芸って、重厚な美を良しとするところがあるから。
菅野:
重さと軽さ、そのちがいとは?
猿山:
毎日使うには、重さが気もちの負担になったり、鬱陶しかったりするかどうか、ということでしょうか。僕は、アートとちがって生活品は負の思考ではなく、プラスに向かうものだと思うんです。それが生活品の役割だと。暮らしている人たちが元気になって欲しいという気もちがベースにあると思うんです。
菅野:
皆川さんのいう「喜び」ですね。
三谷:
そうでしょうね。
皆川:
川上さんが言っている等価とは、食事のなかで大部分を占めるのはパートナーとの夕食そのものであり、器の良し悪しの占める割合は少ない、ということかもしれない。だから、器の価値を等価と言っているのではなく、そもそも器のちがいは誤差程度にしかならないと言っているんじゃないでしょうか。
皆川:
作った作家をリスペクトすることは、喜びです。この人がいたおかげで、こういうものが世のなかに生まれたっていうのは、感動することですから。その器にフォーカスを当てた時には、100円ショップのものと作家が思いを込めたものとでは、雲泥の差があるはずです。
三谷:
普段、何気なく使っているものでも、ちょっとしたときに「きれいだな」と思う瞬間はありますよね。その時に器との関係がまた変わってくるのかもしれません。
井出:
おそらく三谷さんたち生活工芸の作家といわれているような方々には、日常生活とか自分の目の前にあるものを愛すべきという思いがある。そこが生活工芸といわれるムーブメントの、すごい大きなポイントではないかと僕は思っています。
菅野:
なるほど。要するに、器より生活の方が大事だよっていうことですよね。三谷さんらしいと思います。
三谷:
それはわかんないですけど、僕は工芸というものよりも生活や人が暮らしてゆくことの方が、比重は大きいところがありますね。生活を少しでも心地良くするために工芸は何をするべきか、という思いはあります。
菅野:
皆川さんのお仕事も、服のデザインがどうというだけでなく、作る人、着る人、売る人が喜ぶ。直す人も喜ぶ。そうした喜びを社会に拡散してゆく。
皆川:
ものの価値は、そこでしか測れないんじゃないかと思うんです。物性の価値ではなく、喜びの総量かな、と。だから器より生活の方が大事だし、洋服より人の喜びの方が大事です。そのものがどのくらい循環するか、いろんなところに派生して喜びを生んでいくか。それがものの価値になっているんだろうと思います。
菅野:
会場から、質問はいかがでしょう?
発言者1(会場から):
「日用美品」を選ぶ基準について、形や質の物質性よりも、買う人、選ぶ人、作る人の気もちの精神性が重要なんだとわかりました。
生活工芸の作家が作る機能性のないもの、それは三谷さんが企画された「弱さの工芸」でも紹介されたアートピースですが、それらが生まれた理由、人が買う理由は「日用美品」と同じ考え方かなと思っています。
この展示には生活工芸のアートピースがなくて、でも井出さんが音楽とアートを選ばれているところを見ると、音楽やアートと日用品が、まだ同じレベルに来ていないのかなと感じました。今後、どうしていけば工芸作家の作るアートピースがそのステージまでいけるのかなと、思いました。
三谷:
「弱さの工芸」という展覧会を今年の2月から3月かけて、銀座松屋で企画しました。展示したのは、リカちゃん人形の捨てられた小さいハイヒールだとか、世界の欠片のようなもの、儚いものを集めた。器作家の山本亮平さんの作品のほかは、使わないものばかりでした。
「弱さ」を思ったのは、『工芸青花』で企画した「生活工芸と作用展」で、この2つの共通点はなんなのかと考えた時に、弱さではないかと思ったからでした。日本の工芸のなかに弱さというか、繊細なもの、微細なものを美しいと思う感覚がある。それは実用品であろうが、なかろうが共通している。日本の工芸がもつ、ある美質なものが、使われないものにおいてもあるんじゃないかと思って、そういう展覧会を企画しました。
今も少しずつ探っているような状態で、それがどういうものにつながっていくのかは、まだわかりませんし、いわゆるアートシーンとはちがう基準のものですから、それが世界性をもつということは、なかなか考えにくいです。でも日本は、これまでも西洋的な文化と日本的な感受性をうまく結びつけてきています。弱さの工芸みたいなものが、いつかもうひとつのアートへ結びつくという可能性も感じています。
ですから、自分のなかでは音楽やアートと同じように「弱さの工芸」の作品を感じているけど、まだ世間的に同じ扱いを受けていないという状況だと思います。
発言者2:
質問ではなく感想ですが、みなさんそれぞれの捉え方や感じ方があって、自分も自分なりの捉え方とか感じ方ができるんだなと思いました。今日は家に帰って、普段何気なく使っているものに対して、自分はどう感じているのか向き合ってみたいです。時間に追われて忙しい毎日のなかで、ゆっくり過ごす時間が自分で選んで作れるんじゃないかと思いました。貴重な時間をありがとうございました。
発言者3:
自分は洋服を作る時に、何年経っても良いといわれるものを作りたいと思っています。白シャツみたいな定番商品を自分が作っても、あまり意味がない。では、どういうものが普遍的なのかを考えた時に、買ってくれた人の記憶に残るものではないか、と思いました。形あるものは、いつか滅びるわけで、使っていたものがなくなっても、ふとした時に思い出してもらえるもの。それが自分にとって普遍的なものだと思って、それを意識して作っています。みなさんにとって普遍的なものって、なんですか。
三谷:
僕は、人の暮らしの基本形は変わらないと思うんです。衣食住というものの基本は人の五体が変わらないように、あるいは皿やボウルの基本形が変わらないように、原始時代からあまり変わらず、文明とはちがう軸をもっていると思うんです。そういう意味では、人の暮らしにはある普遍性がある。だから、できるだけそこにつながるものを作りたいと思っています。
皆川:
僕は普遍的な存在があると思えていない、普遍性のあるものをまだ知らない、という状況です。
山本:
普遍的なものを作りたいとか、その時代を超すものづくりをしたいという作家もいますけど、うーん……
発言者4:
メディアを見ると、結構安易にその用語が出てきますが、ちょっと違和感は感じています。
皆川:
後世に残るものは、その時代の空気感を宿しているものかもしれません。焼きものでいえば、弥生時代や桃山時代の強さだったり、平安時代のきれいなラインだったり。時代が変わったときに残るのは、そういうものではないでしょうか。
井出:
普遍というのは、時代とか地域とかを問わないもの、あるいは個人が感じるちがいを超えたものだと思います。ご飯を食べるとか、トイレに行くとか、誰でもやる行動もあれば、その人しかやらない行動、その人しか感じないことや好みもあるし、ひと口にはなかなかいえないとは思うんです。
先ほど文化人類学の話をちょっとしたんですが、美しさの基準は、文化とか個人によって全然ちがいます。白くてシンプルなものが美しいと思う人もいれば、すごい色づかいを美しいと感じる人もいるわけで。
ただ、好きな人が亡くなったら悲しいとか、友達といたら楽しいとか、人間の根源的な感情においては、案外変わらないんじゃないかと思います。そういうところから生まれたプロダクトには、色や形とか表面に見えるものとは別に、何か力があるのかもしれないなとは考えています。
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森岡督行 + 井出幸亮(ゲスト) + 猿山修
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山本忠臣 + 皆川明 + 三谷龍二 + 井出幸亮
随時更新いたします。
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森岡督行 + 井出幸亮(ゲスト) + 猿山修
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山本忠臣 + 皆川明 + 三谷龍二 + 井出幸亮
随時更新いたします。
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