日用美品

1

連続トーク「日用美品」

三谷龍二 + 小林和人 + 竹俣勇壱   司会:菅野康晴

菅野:

今年は「日用美品」というテーマです。「日用美品」は造語ですが、おのずと日用品の美とか、美しい日用品という意味が浮かぶと思います。いろんな雑誌や本などでくりかえし取り上げられてきたテーマですが、今ここで、それを考えることにどんな意味があるのかも議論してゆけたらと思っています。

それから「美しい」という言葉をどう考えるか。これはすごく難しいことでもあると私は思います。三谷さんが最近書かれた『すぐそばの工芸』という本のなかで、工芸品には2種類あると述べ、美について触れています。

ひとつは、いわゆる生活工芸的な「すぐそばにある工芸品」。もうひとつは皇帝や王など権力者のために作られた「献身的な工芸品」。後者の美は、それをもつ人間と、もたない人間とを差別化するためのもの、つまり権力者が自分の威信を示すための美でした。そうした工芸の歴史と、今回のテーマである日用品の美とのかかわりについても、出展者のみなさんに聞いてみたいと思います。

三谷:

こんにちは。三谷龍二と申します。私は松本に住んでいて、この六九通りという商店街の一角に「10cm」というお店をもっています。明日からクラフトフェアがはじまりますが、その最初から関わり、クラフトフェアから生活工芸まで、ずっと工芸のことを考えてきたつもりです。

クラフトフェアは作家の集まりですが、六九クラフトストリートは編集者やギャラリーの方、いわば、ものを選ぶ人の集まりです。作る側ばかりではなく、ものを選ぶのも大事なことじゃないか。そんな思いから、六九クラフトストリートを企画しています。

毎回、展覧会では選者となった方に自分の目で選んだものを出していただき、どうしてそれが美しいのか、どうしてそれを選んだのか、ということを書いていただいています。とかく工芸は、言葉で語られない場合が多いので、こういうことも少しずつやっていく必要があるのではないかと思っています。

さて、「日用美品」についてですが、私は日用品というものは、それ単体で作品的にすごいインパクトがあったり、強い表現であったりというのではなく、生活に溶け込んで、その存在もわからないくらいになっているものだと思っています。

今回の展示では、私はコーヒーのまわりのものを挙げました。サーバーとドリッパーとキャニスターです。ほかにもペーパーフィルターの入れ物とか、メジャースプーンとか、コーヒーを淹れるためには、いろいろな道具が必要です。そして道具はそれぞれがつながっていて、どれかが欠けたらば成立しない、1個では成立しないので、お互いに助け合うというようなところがあり、人間同士の関係性にも近いように感じます。

ところが美術館に飾られる、いわゆる美術工芸品は、1点で成立するように作られています。日本では明治以降に、美術館でも工芸を取り上げようと非常にがんばったわけです。身近にあったものを、どうやったら美術館におさめ、見映えのするものにできるか、がんばって取り組みました。

その結果、もちろんいいこともあったし、素晴らしい作品が生まれた場合もありますが、一方で、ひとりよがりであったり、ただ精緻な技術を競ったり、その結果、生活から離れてしまった工芸がたくさんあらわれました。そんな流れが明治以降、90年代までずっと続いてきました。そういうものに疑問を感じ、そういう自己表現とか個性とかというものから解放されたいと、僕らは思ったのではないでしょうか。

それが今の時代になって、1点ではそんなに力はないけれど、暮らしのなかにあることによって豊かさが感じられるような、日用品としての工芸に結びついたのだと思います。毎日使っていても、飽きのこないもの、使いやすいもの、そして美しいもの。僕自身、そんなことを心がけて選んでいます。

小林:

こんにちは。僕は吉祥寺で「OUTBOUND」、代々木上原で「Roundabout」という店を営む小林和人と申します。

「日用美品」という言葉は、確か皆川明さんが最初の会議の時に提案されたと思います。その時におっしゃっていたことを自分なりに解釈して、日用品が並んだ時のモジュール感というか、連続した時の心地良さ、みたいなことを思いました。自分が普段、店で取り扱っているのは、手仕事の1点ものもあるんですが、同一規格で反復製作されるような日用品も少なくありません。

たとえば、エルヴィス・プレスリーが連続するアンディ・ウォーホールのシルクスクリーンだったり、あるいはヒップホップで同じフレーズがループされていく心地良さに「反復の美」というものを感じています。

今回、自分が選んだ3点のうち、ひとつは紙箱を作っている「竹内紙器製作所」という横浜の会社のボール紙の箱です。竹内紙器の箱は、同じ規格を積んだ時の連続する心地良さがあります。それから、一度蝋引きして、それをまた熱でとばすという工程があって、それが一個一個に微妙な差異を生みます。同じ規格で整うけれど、ちょっと表情の違いがある。そこのバランスに、手仕事と工業製品の中間みたいな魅力を感じました。

それから「入れ子の美」。入れ子が嫌いな人って、僕は会ったことがないです。「入れ子だけはかんべん」みたいな。

会場:

(笑)

小林:

たとえば、日本の何椀でしたっけ?

三谷:

応量器(✳︎禅宗の修行僧が使う入れ子の食器のこと)?

小林:

ああ、そうです。あとはロシアのマトリョーシカとか。あれは水面に水滴が落ちたときの波紋とか、そういったものを連想するところから心地良さにつながっているんじゃないかなと僕は思っています。それで、もうひとつに「iwaki」というガラスメーカーの耐熱ガラスの片口を選びました。いわゆる工業製品ですが、同一規格だからこその心地良さが感じられます。

最後のひとつが、増満兼太郎さんという作り手の革のボウルです。素材は、牛の皮を薄く削いだときに出る「床革」とよばれる部材です。普段は廃棄されたり、靴のソールやカバンの中敷に使われますが、それをあえてメインの素材にしています。おもしろいなと思ったのは、靴作りで使うタックスと呼ばれる鉄の釘で止めているんです。

本来の用途とちがう組み合わせで新たなものを作る。ちょっとブリコラージュ(✳︎寄せ集め細工、器用仕事の意)的な魅力を感じました。造形作家が作ったものではあるけれど、あれを見て、自分も身の回りにあるものを組み合わせて何か作れるんじゃないか、そういう気もちにさせる、日用品が生まれる瞬間を想起させる、そういうものとして選びました。

竹俣:

こんにちは。金沢で金属の仕事をしている竹俣勇壱と申します。僕は、猿山修さんのようなデザイナーさんと組んで、プレス型を使ってカトラリーを作るという工業製品に寄ったやり方と、手作りと、両方でのもの作りをしています。新潟の燕市は金属加工品の産地ですが、そこと共同で、手作りの良さと機械生産のメリットをうまく合わせたものができないかなと思って取り組んでいます。

僕が今回選んだのは、自転車のサドルと茶筅とフランスのインク瓶。この3点は、僕が普段の生活のなかで、結構ハードに使っているものです。共通しているのは、どれも適当に使うと、ものすごく使いにくい道具だということ。

たとえばこのサドル、適当に座るとものすごくお尻が痛いです。でも姿勢良く乗ると、まったく痛くない。茶筅は、適当に振るとお茶がおいしくたたない。でも、ちゃんとした姿勢で茶筅を振れば、なぜかおいしいお茶がたってしまう。

インク瓶は、僕は茶入れとして使っています。が、実はすごく使いにくい。手作りっぽさも多少あるんですけど、たぶん1900年代初め頃の工業製品だと思います。今のガラス製品と比べると、型跡が残っていたり、質感が工芸的だなと感じます。そのなかにお抹茶を入れると、きれいな色に見えます。それから蓋が真鍮で、その金色とお茶の色が合う。その見た目が好きなので、茶入れとして使いたいけど、インク瓶だから口が小さくて、お茶をかなりシビアに出し入れないと汚くなってしまう。

3つとも、自分の所作とか姿勢がすごく関わって、ちゃんとしなかったらうまくいかない、ちゃんとすれば、それを使う自分の姿まできれいに見える、という道具です。

小林:

今のお話を聞いて、道具は人が作ったのに、人は道具によって調教されている、と思いました。ちょっと卑近な話で申し訳ないですけど、たとえば使いなれないトイレで流す際に、無意識にレバーを操作するけど「あ、こっちじゃない」みたいな。人間は習慣の奴隷なわけです。ちゃんとした姿勢で臨めば非常に使いやすく、結果、所作も美しくなるというのは、なんかちょっと逆説的な、媚びない道具みたいで、おもしろいなと思いました。

菅野:

適当に使うと使いにくい道具を、ちゃんと使って得られるものとは、何でしょう。

竹俣:

いいものを使うと、自分では気づかないけど、他人から見ると所作がきれいだとか、普段の立ち居振る舞いにも影響してくると思うんです。

菅野:

三谷さんと竹俣さんは作家ですが、そうしたことも意識しながら道具を作っているのですか?

三谷:

僕はできるだけ抵抗感のない形にします。西洋の道具類はDIYが基本ですから、誰もが使えるように道具を民主化していったと思うんです。一方で、日本の道具は職人のためのもので、職人には使い良いけど庶民には使いづらかった。どちらがいいかは判断しにくいところですが、僕はまず生活者のことを考えたいと思っています。

竹俣:

僕は、実はそういうものを作っています。僕はもともとジュエリーを作っていたのですが、カトラリーを作らなきゃいけなくなった際に、形の理由をさがすために飲食店でスプーンを使う人をずーっと見ていました。

日本では女性でも結構、大口を開けてスプーンを使う方が多いんですけど、それがすごく変だなと感じました。ヨーロッパのスプーンはわりと大きいけど、外国人の口が大きいわけではなく、彼らはスプーンの先にしか食べものをのせない。

それで、大口を開ける食べ方を矯正できないかと思って、スプーンの頭を重く、柄を細くしたんです。もちにくくすれば、たくさんのせないんじゃないか、と。今でも定番商品として作っていますが、頭が丸くて、柄の幅が2.5ミリぐらい。

菅野:

たしかに、もちやすくはない。

竹俣:

はい。14~15年前にデザインした当初は、ギャラリーの方に使いにくいと言われて、全然売れませんでした。矯正するどころか、お客さんに届かなかった。

菅野:

でも、今では人気商品に。

竹俣:

最近は。飲食店の方が多いです。みなさん、「使ってみたら、そんなに使いにくくないよ」とおっしゃいます。飲食店の方は見た目がちょっとおもしろいものを使いたがる人が多いので。

三谷:

竹俣くんのスプーンは、家庭より外食で使った時の方が発揮される美しさだなと思います。家と外食では、状況がちがいますよね。外食になれば、まわりの環境とか、しゃんと背筋を伸ばすような感じがあって。

『すぐそばの工芸』で金森正起くんと対談したんですが、金森くんは長い時間、土の上に置いて鉄を錆びさせて、なかには朽ち果てるような状態にして、それに漆をかけて食器にしたことがあるそうです。それは質感が魅力的なのですが、ただ、それを自分の家で使うかといえば、金森くん自身は抵抗を感じたと言うのです。

でも、ある料亭の方は「うちで使う」とおっしゃった。料亭では、そういうスタイリッシュなものが映えますよね。家と料亭とでは、器への触れ方がちがうと思うんです。家庭を日常、外食を非日常とすれば、日常と非日常では感じ方にちがいが出てくる。僕は日常に寄って考えるところがあるけれど、外食の方からの需要もよくわかる気がします。

小林:

「ハレとケ」という言葉があるじゃないですか。ご自身のカトラリーが、どっちかに振り分けられるとしたら、どちらですか?

竹俣:

まあ、ハレでしょうか。最近はそうでもないですけど、昔はほとんど自宅で食事をせず、外食が日常的だったので。だから飲食店の人たちと接点ができた、ということかもしれないです。

菅野:

小林さんは今回のテーマ「日用美品」について、どうお考えですか。

小林:

手前味噌ですけど、2011年の暮れに『あたらしい日用品』という本を出しまして、「あたらしい」という言葉に幅と奥行きをもたせたかったので、タイトルをひらがな表記にしました。自分にとっての新しい日用品とは、使うたびに価値が更新され続けるものじゃないか、と。

そのものがデザインされ、発表されたのがずいぶん前のことであっても、その価値が更新され続ける、新しさが有効であり続けるものは、あると思うんです。「日用美品」は、もしかしたら自分が考える「あたらしい日用品」と、かなり近いんじゃないかと思いました。

三谷:

使うたびに新鮮さを感じるものと、そうでないものを分けるのは、なんだと思いますか。

小林:

経年美が増していくか、経年劣化していくか、というのがひとつの分かれ目だと思います。劣化していくものは、この世のなかにあふれている。一方で、使うごとに価値が増していくものがある。物理的な意味合い以外においても、綿密に練り上げられて生まれたものは、使うたびに価値が更新され得るものだと思うんです。

三谷:

強度や耐久性が優れていたり、用途として長く使用することが可能なものであっても、それが美しくないと飽きちゃうと思うんです。そして飽きると、ぞんざいに扱ったり、使わなくなったりする。使う自分がずっと気もち良くいられないと、使い続けることができないと思うんですよ。そのためには使い勝手もあるけれども、見飽きない、使い飽きない、美しさは必要な部分だと思います。

菅野:

使うだけでなく、見ても飽きないもの。

三谷:

そうですね。逆に言えば、ずっと飽きないものが美しいものではないかと思いますけどね。美しさは、時には判断が狂うことがありますね。でも、ずっと見飽きなかったということは、時に洗われて残った美しさだといえると思うんですよ。そういう判断をすることは、僕自身の場合は多いかもしれない。すぐに答えを出さないで、まず使って長くつき合ってみる、という感じですかね。

菅野:

日用品ですからね。

三谷:

そうですね。そうしないと、なかなか真価がわからないという面はあると思います。

小林:

内田百閒の随筆で「味が決まる」という言葉があったのを思い出しました。あんまりおいしくないご飯でも、毎日食べ続ければおいしく感じる、みたいな、そんな書かれ方だったと思うんですけど。三谷さんがおっしゃった「毎日使って飽きない」というのは、「味が決まる」ということにちょっと似ているな、と。もしかしたら内田百閒が言っていた「あんまりおいしくない」は、実は食べ続けられるおいしさがあったんじゃないかと思うんです。

三谷:

食べものの話ですと、「吉兆」の湯木さんが、食べていきなりおいしいと思うものは、料理としてあんまり良くない、と書かれていました。何皿も食べていくわけですから、食べ終わった時においしいと思えるかどうか、そこにもっていかないといけない、と。日用品にも、そういうところがあるのかもしれませんね。ちょっと薄味に、みたいなところが。

小林:

三谷さんが『すぐそばの工芸』で書かれていた「弱さ」と通じる部分があるんですか。

三谷:

あまり強く出さないという意味では、そうですよね。料理において自分の主張を強く出さない、あまり決めすぎない、という面もあるんじゃないですかね。

菅野:

話は変わりますが、三谷さんの生活のなかで日用品以外のものとは、どういうものですか?

三谷:

そうですね……。その境は非常にわかりにくいんですけど。たとえば、壁にかかっている絵があるとすれば、それもある意味、日用品といえる気もします。

菅野:

絵画も日用品だと。

三谷:

もちろん絵は実用品ではないので、本来の意味では入らないと思いますが、生活者の実感からいえば、部屋の中にある食器や椅子と、絵や彫刻は、そこに距離の差をあまり感じないので、心のための「用」を成すもの、とはいえると思うんです。

小林:

この間、ギャラリーfeveの壁に三谷さんが展示されていたT字の木を削ったものが印象的でした。白っぽく塗装して、それをまた剥いだような。「これはどういうものですか」とお聞きしたら、もともと壁にかけていたT字定規を模したものだ、と。T字定規は、なんとなく壁にかけていたんですか?

三谷:

定規は10数年前に道具屋さんで買ったもので、T字定規として使うにはちょっと中途半端な大きさだったんですけど、裏を見ると木が経年変化した感じが良かったので、壁にかけるようにしたんです。

小林:

暮らしの一部になっていったものを、それへのオマージュというか、それを思いながら作品にすることは、三谷さんのなかではどういう感覚なのでしょう。

三谷:

ああいうものにどんな価値があるか、なかなか自分では判断できないんだけど、10年、15年と、ずっと見てきても飽きなかった形だったんです。じゃあ、好きな形だから作ってみようかな、と。その飽きない形を自分のなかに少しずつ刷り込んでいって、これは好きな形だとはっきりわかった時に、その形を自分で作ることができるような気がしたんです。それだけ時間をかけて待つという感じはあります。それは日用品と同じような感覚ですよね。

菅野:

そろそろ時間ですね。質問があれば、ぜひ。はい、皆川さん、どうぞ。

皆川(客席から):

美しさの感じ方には個人差があって、それは生きてきたなかでだんだん定まってくる価値基準だと思うんです。みなさんの暮らしにおける美意識がどうやって定まってきたのか、お聞きしたいです。たとえば、三谷さんのなかで心地良くて、美しいと思うものは、いつぐらいに定まったのか。

三谷:

わりと早いんじゃないかなぁ。二十歳前後の感覚は、今と大きくは変わらない。ただ、その時は全然お金がないから、もてるものはちがいますけど。でも、基本的に好きなものは、そんなに変わっていない印象があります。あんまり強く表現しないもの、ただそこに置いてあるだけのもの、佇まいがあるようなもの。それから、ちょっと汚れていたり、経年変化していたり。そういうものが好きなのは、その頃から変わりません。

小林:

自分のいいなと思うものは幾つかの流れに分かれていて、それぞれに深い浅いがあるというか。たとえば店で取り扱っているのは、基本的にはタイムレスなもの。だけど一方で、80年代に登場したデカいラジカセとか今でも好き。でも、それが手仕事の器の横にあっても心地良くない。別の部屋で愛でたい、みたいな感覚です。

店をはじめた当初は、自分の好みを全部一緒くたにしないと嘘じゃないかと思っていて、結構、混沌とした状態だったんです。そこから、もうちょっと編集した方が伝わるんじゃないかと思って、今は「Roundabout」と「OUTBOUND」という2つの編集方針に則って分けています。

菅野:

20代の小林さんもあの箱を選んでいた?

小林:

ここにある3つのものは、たぶん20代から好きだったと思います。たとえばカーハートというワークウェアのブランドがあって、小学校6年生のときにコットンダックのパーカーを親に買ってもらったんですけど、それは今でも捨てられずにもっています。そんなふうに小6から続く趣味がある一方で、途中でなくなった趣味もあります。

竹俣:

僕は、今の自分の感覚をもったのは、10代後半か二十歳ぐらいだったと思うんです。その頃、車とかバイクとか自転車とか、カメラとか、男子が大体好きになるような機械ものが好きで、それをバラしたり。形ではなく、部品が好きなんです。この自転車もそうですけど、20代の時から部品だけ、いっぱいもっていたんです。好きな形やツヤ感があって。

で、確か京都の骨董市でコカ・コーラとかファンタとか350mlのアルミ缶の、塗装を剥がしたものが100円で売っていたんですよ。それがすごい良く見えた。帰りの電車で「とうとうこんなものまで買ってしまった、俺」みたいな感覚をすごい覚えています。それ以降、集めた部品を磨くようになって、今に至ります。

菅野:

この自転車は塗装をはがしたんですね。

竹俣:

はい、汚れてたから。これは80年代のブリジストンの折り畳みママチャリです。タイヤが大きい折り畳み自転車が欲しくて、買ったらボロボロだったので、磨いたらピカピカになって。ちょくちょくストレス発散で磨きたくなります。