洗練と素朴

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連続トーク「竹籠とステンレス笊」

井出幸亮(編集者) + 小林和人 + 山本忠臣   司会:菅野康晴

菅野:
連続トークの4回目、テーマは「竹籠とステンレス笊」です。

小林:
去年のテーマが「工芸のウチ・ソト」で、私はそれを「工芸の範疇に入るか、入らないか」と解釈して、柳宗理のパンチングメタルのボウルと、山崎大造さんという高知の竹かご職人の竹ザルを紹介しました。

その2つにはすごい差があると思うんです。片や機械を使い、片や竹を切りに行くところから始まって竹ひごを作って手で編んでいく。両者の間には隔たりがあるけど、その間はグラデーションのように曖昧で、手を使う大量生産品もあれば、プログラミングして動く旋盤を取り入れている個人の作り手もいるでしょうし。

なので、ここまでが工芸で、ここからはそうではないとは、なかなか言いづらいんじゃないか、2つの間は連続的な差異でつながっているのではないかと考えまして、それが今回のテーマにつながっています。

井出:
今、小林さんがおっしゃったことはそのとおりで、僕も工業製品と工芸品は、はっきりと分けられるものではないと思っています。たとえば岡山では昔からデニムを作っています。これは織機を使うんですが、特定の職人でないと出せない味みたいなのがあるんですよね。なので、工業製品だから魅力がなくて、手仕事だから魅力があるというわけでもない。その辺をおふたりに聞いてみたいと思っています。

山本:
僕は普段から工芸品を中心に扱っているので、工芸においては今回の「洗練と素朴」というメインテーマはぴったりだと思いました。「洗練と素朴」という言葉こそ工芸じゃないかと。洗練が高尚なものにすること。素朴が飾り気なく自然のままであること。工芸は両方入っているものが多いから。だから「竹籠とステンレスザ笊」というテーマは、「洗練と素朴」を話すのには、ちょっとずれていると思いました。

僕がセレクトしたのは、原土と精製した粘土の粉末。抹茶茶碗。望月さんの木彫と唐津の陶片。美濃和紙と黒谷和紙です。

小林:
洗練は美濃和紙、素朴は黒谷和紙、ということですか?

山本:
両方を兼ね備えて、ひとつで洗練と素朴が備わっているものを選びました。

小林:
自分も、ひとつの中に洗練と素朴の要素が同居しているものを選びました。

このショールは葛でできていまして、谷由起子さんという女性が、ラオス北部のルアンナムターを拠点に、カム族という少数民族とともに作っています。これは素材作りの段階は非常にワイルドで、刃渡り30センチの鉈で葛のつるをしごいて、取り出した繊維を脛の上で転がして糸を績(う)む。とても原初的な、素朴な素材作りです。そこから先の、かぎ針や棒針で編んでいく作業は非常に優雅で、いつまでも眺めていられるくらい手の動きが洗練されています。素朴な過程と洗練された工程が網目のようにからみ合ってひとつのものができているのが、おもしろいなと思います。

それから、今日も聞きに来てくださっていますが、木工作家の柏木圭さんが作られている「栗懐中箸入れ」は、栗の木に鉈をあてて砧でパーンと打つと、繊維方向に板が割れる。それをくり抜いて、竹箸を入れている。ぱっと見は、鉋で仕上げた滑らかな質感で、一本の棒かと思うんですけど、じつはそれがふたつに分かれる。表面の仕上げは非常に繊細ですが、割れ目をそのまま生かした荒々しい面が残っています。

3本足のスツールは、アフリカのロビ族が作ったものです。不安定で壊れそうな形だけど、木の股を利用しているから、とてもしっかりしています。一刀彫りという素朴な作りですが、構造的には洗練された形です。

ほかには「コズミックワンダー」という衣服のブランドによる和紙の合切袋や、熊谷幸治さんの土器など。

「洗練と素朴」は真逆の要素ですが、ひとつの中に混ざりあって共存するのだなと改めて感じました。井出さんは展示をご覧になっていかがですか。

井出:
さっき山本さんが、工芸こそ「洗練と素朴」だとおっしゃっていました。それはどういうことなのか、工芸をどう定義されているのか、お聞きしたいです。

山本:
代表として井戸茶碗を選びました。基本的には枇杷色で、高台が「梅花皮(かいらぎ)」といって白い釉薬が固まってパラパラになっている。こういうのを井戸茶碗といいます。作家は洗練を極めようとしてこの井戸茶碗を写すんですが、そのまま同じ形になれば自分の求める茶碗になるかといえば、そうではない。縄文時代から素材の土はほとんど変わっていなくて、その限られた範疇のなかで洗練を求める。目の洗練だったり、時間の洗練もあると思うんですけど。

井出:
目の洗練というのは、細かい差異を楽しめるということですか。

山本:
ということもあるし、そのものからの気配を感じ取る感覚ですかね。

井出:
感受性。

山本:
はい。だから今回はわかりやすく、桃山時代から作り上げた井戸茶碗とか天目茶碗を選びました。その中にも差異というんですか、空気感が感じられる。そこに作り手の洗練がある。

井出:
作り手の洗練とは。

山本:
わかりづらいですよね……(しばし沈黙)。考えておきます。

会場:(笑)

井出:
山本さんがおっしゃった自然に近いということが、工芸の条件になるのでしょうか。

山本:
素材の進歩はあまりないですけど、限られた範囲での進化はあると思います。

小林:
ちょっとずれますけど、洗練と素朴の中間的なものは、これじゃないかと持ってきたんです。ラオスのビエンチャンの市場で買ったアルミのやかんです。同一規格で反復生産されているもので、バリが残っていたり、仕事は粗いけど、憎めない魅力がある。プロダクト的な視点で見ると悪い例かもしれませんが、惹かれて購入して、わざわざ手荷物で持って帰ってきました。実際にお湯を沸かして試したことはないので、使い勝手がいいかどうかもわからない。こういう割り切れないものの魅力って、あるなと思って。

山本:
素朴な感じがいいですね。

小林:
井出さんはくわしいと思うけど、昔の古着で、20世紀初期の頃の服は、動力を使っていても、職人のさじ加減が質の良し悪しに重要な要素を占めるでしょう。

井出:
大量生産品で作っている人は、恐らく美しさとか、そこまで深く考えていないでしょうし、プロダクトの質は髙くない。そもそも高めようとも思っていないわけですよね。それを見る人が、素朴さや粗さに美しさを見出す。柳宗悦などの民芸の発想に近いのかなと思います。

小林:
無印良品は現代の民芸といえるといわれるのは、ちょっとちがうと思っていて。民芸はあくまでもアンプラグドな、アナログな、動力を使わない人力に頼るもの作り。とはいえ、現代においては必ずしもそこに限定されないのかもしれませんが。ただ単に安価で生産するから民芸、ということではないと思っています。

山本:
そのケトルは持ち手とかがきっちり作られていなくて、人間味があります。それは人間の洗練しない状態というか、自然のままというか、素朴だと思うんです。反対に抹茶茶碗は洗練を追い求めて作るんですが、僕が今回選んでいるものは、作り手がある部分では作為をなくそうと、すごく努力している。

たとえばロクロ目とか裏の梅花皮(かいらぎ)は、それを作ろうとして作っているのは明らかに作為なんですが、手の自然な動きとか、釉垂れとか、そういう部分では作為を消そうとしているんです。

井出:
もののなかに作為と無作為が交じっているという状態ということですか。それが「洗練と素朴」につながっている。

小林:
作為をなくすということは、作る動作を無意識に近づけること。動作を洗練させていってできあがったものが、じつは非常に素朴な魅力を持っている。

山本:
共存しているのが僕の好きな工芸です。

井出:
作為によって無作為を呼び込むということですよね。工芸に限らず、音楽を作る人でも、絵を描く人でも、もの作りをする人はクリエイションを追求していくと、どうしてもその問題に突きあたると思います。非常に難しいことですよね。狙ったうえで狙っていないような雰囲気のものを作るわけですから。民芸にも矛盾がもともとあって。

山本:
その矛盾が同化しているのが、いいなと思います。

井出:
スリリングなものになりますよね。

山本:
「洗練と素朴」が同居しているといえるのではないでしょうか。

今回、僕はハタノワタルさんが丹波で作られている黒谷和紙と、本美濃紙を選びました。美濃の和紙が正倉院にもあります。どちらもコウゾを洗ってきれいにして、細かいゴミを取り除いて漉く。すごい時間と手間ひまのかかるものです。

本美濃紙は障子に使われることが多く、黒谷和紙は番傘にしたりするので、そこまで細かくゴミを取る必要がない。むしろ取らない味わいがいい。ほとんど同じ素材なのに。そのへんがおもしろいなと思います。

小林:
美濃和紙と黒谷和紙、どっちが好きですか。

山本:
どっちも好きです。本美濃紙は、最初は黄ばんでいるのですが、紫外線にあてると白くなっていくんです。今回、展示するために、窓に貼っておいて白くなるようにしたんですが、そこまでなっていないです。建築の仕事では空間の雰囲気で、壁にはハタノさんの黒谷和紙を使ったり、障子には本美濃紙を使ったり、使い分けています。

菅野:
「竹籠とステンレス笊」の話に戻しますね。水を切るという用途は同じ。後始末を考えたら、ステンレスの方が便利だと思います。では竹ざるを使う人は、便利さの代わりに何を得ているのでしょう?

小林:
ものの役割は2つあると思います。ひとつは水を切るための物理的な機能。それを優先する人はステンレスざるを求める。そういう機能的なものがあふれているにも関わらず、竹かごや竹ざるを作る作り手がいて、ステンレスざるよりも高いお金を払って購入する使い手がいる。それは恐らく機能とはちがう価値を欲しているから。

それはなんなのか。そのものがあるだけで感じる豊かさとか、そういう価値を作り出す抽象的な働きに自分は「作用」という言葉をあてはめています。

先ほど菅野さんがおっしゃったように、後始末のしやすさとか耐久性だけを考えると、ステンレスざるのほうが基本的には優れているかもしれませんが、今の自分の趣向だと竹ざるを選びます。手元に置いておくだけでも、ものとしての役割を発揮していると思うんです。つまり、作用をもたらしてくれている。逆に自分が竹ざるから作用を引き出しているともいえる。

菅野:
しかしそれは、一般化しにくい感覚ですよね。

小林:
完全に「※個人差あり」って世界です。

山本:
梅干しを作る人は、大きな竹ざるを持っていると思うんですけど、ステンレスのはあんまり見たことがない。天然素材が吸水するので、ほど良く乾く。僕の家ではお米を作るんですが、種まきをする前に種を水に浸けておいて、藁で編んだ筵(むしろ)で、ちょっとだけ乾かすんです。上は天日で乾くし、下は藁が水を吸ってくれる。すごく機能的だなと思います。農家の人は、破れたら布で縫って、使い回している人も多いです。それがビニール製だったら、機能を果たさない気がして。ステンレスざるより竹かごが勝ることは、じつはけっこうあるのではないかと思います。

井出:
確かに、安くできるとか、たくさん早くできるとか、経済合理性を追求して作ったものが機能的に優れているとは限らないですね。もちろん耐久性はステンレスのほうが強いけど、それぞれあると思うんですよ。

小林さんがおっしゃるところの作用、要するに美しさを感じるとか、それを見てほっとするとか、人の心に与える機能は、用途としての価値が高いかどうかとは関係ないことだと僕は思います。使用できないないものでも、壁にかけていて豊かな気分になれることもあれば、ステンレスのざるに美しさを感じる人も当然いると思うんです。「用の美」でいう美は、人それぞれの感覚なので。

小林さんの選んだ椅子ですが、これはブルキナファソの椅子ですよね。僕は川田順造さんという人類学者の取材をしたことがあって、昔はオートボルタといったんですが、川田さんはブルキナファソの現地調査をしていました。

現地の人たちは一切、設計しないんですよ。このミツマタの木があったから、この椅子を作った。文化人類学用語で「ブリコラージュ」というんですが、その場にあるものをなんでも使う。ものを見てから、これは何に使えるかと考えるんです。もちろん木も使うし、ひょうたんを割って桶にもする。ゴミ捨て場に自転車のチューブが捨ててあったら、それを使って何かを作っちゃうんです。自転車チューブだから工業製品、木だから自然とは考えていない。すべてそこにある自然のものという認識です。

川田さんの本を読んで印象的だったのが、ブルキナファソの人たちには、白がないということ。僕らはホワイトキューブとかキャンバスとか、白をベーシックな色と考えていますが、彼らの日常の中には白がないから、白がベーシックではないんです。色の捉え方とか、フォルムやディテールに対する美的な価値観や認識は、文化的背景に規定されていて、もちろん個人差はあるけど、なかなか一般論で語ることはできなんじゃないかなと思います。

山本:
すごくわかりますね。僕は今日、白いシャツ着ていて、僕のギャラリーは白い空間で、それはニュートラルだからという意識もあるのですが、自然界にはない特別な色だから対比ができる、という考え方なんです。多分「普通」ということと似ていると思うんです。「普通」は普通じゃないことが多いので。そう思いました。

小林:
さっきのやかん、あれはプロダクト的な指標でいうと出来が悪いという評価を受けると思うんですが、あれになぜ魅力を感じたかに気づいたんです。自分の店は、始まりは雑貨店だったんですが、自分はあまり雑貨が好きという意識はなかった。でも、これを良しとする感覚はもしかしたら雑貨的感覚なのかな、ということに今、気づいたんですが、時間もあれなんで、追い追い、また。

会場:(笑)

菅野:
会場からの質問があれば。

会場:……

小林:
あ、じゃあ僕、いいですか。おそば屋さんの「三城」に今日はじめて行って参りまして、びっくりしたのが、割りばしの袋におかみさんが1枚ずつ「三城」と手書きしているんです。福井県武生に大将がパッケージに手書きしているおこわ屋さんがあるけど、自分の人生で知る限り、その2軒しか出会ったことがない。おかみさんいわく「箸の先が直接触れるところだから、よそで作るのがちょっと嫌なのよ」。しかも「手書きが一番楽」だと。洗練と素朴の間をたゆたうものだなと思いました。