洗練と素朴

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連続トーク「デザインと手仕事」

竹俣勇壱 + 猿山修 + 森岡督行   司会:菅野康晴

菅野:
2回目のテーマは「デザインと手仕事」です。森岡さんが書いたリードには「柳宗理の言った『新幹線は民芸か』を考えることは、デザインと手仕事の境界や能率を考えることにつながると思います」とあります。

森岡:
『新幹線とは民芸か』ということを考える機会は、私にとって3回目になります。最初は2015年に神田神保町で行なった『工芸青花』を紹介するトークイベントでした。その時は菅野さんとラウンドアバウトの小林和人さんとお話しました。その次は、去年この場所でした。その時は猿山さんと一緒でした。

なぜ私がこのテーマに関心をもったかといいますと、私が茅場町で店をやっていた頃、日本橋の高速道路をめぐる問題についてヒアリングを受けたことがあったんです。その時に思い出したのが柳宗理の「新幹線を民芸で考えることができるのではないか」という問いでした。

日本橋の上に架かる高速道路を民芸と捉えることができたら、少しは変わった風景になるんじゃないかと考えたんです。民芸の定義は、民衆のための工芸品とか、手仕事とか、無名性とか、いろいろあると思うんですが、曲線美とか、無名の人が作っているところとか、新幹線にもあてはまる箇所がいくつかあって、むしろ日本橋の方がヨーロッパを真似して作ったものに見えてきた。そんなことがありました。

「新幹線とは民芸か」を問う時に、柳宗理は工業化や機械化に対する答えを含めて考えていたと思うんです。民芸は工業化や機械化することを否定していなかったので、そういう問題も孕んでいると思っています。

菅野:
猿山さんと竹俣さんはふたりで組んで工業製品的なものづくりをしています。

竹俣:
僕と猿山さんが一緒に組んでいるシリーズは「ryo」と「tayo」のふたつがあります。「ryo」は4、5年前から量産体制で作っているカトラリーで、産地である新潟県燕市で作っています。

僕はもともと手作りでカトラリーを作っていて、素材はステンレスを多用していました。ステンレスは機械加工を前提とした素材なので手作りでは数が作れなくて、1日10本できればいいくらい。そのうちバックオーダーを3、400本抱えて、このままだと一生終わらないと思った時に、燕市のプレス屋の社長と知り合う機会がありました。調子のいいおじさんだったので、一緒に飲みに行って「やってあげるよ」という話から作ってもらうことになりました。

いざ機械で作ってもらえるとなると、どうやってデザインしたらいいのか、まったくわからない。そんなときに猿山さんと出会って、お願いすることにしたんです。「ryo」はそれから約5年で通算何万本という量を製造しています。

「tayo」は去年、発表したシリーズです。僕が材料をカットしてもらう鉄工所があって、おもに研削機械のカバーを作っている、わりと大きい工場です。50人くらいいる社員は、僕が仕上げる完成品を1回も見たことがないけど、たとえば雑誌や新聞に載ったり、テレビで見かけると、ものすごく喜んでいると社長から聞いていました。社員が自分たちの完成品を見られる仕事がしたいという相談を受けて、また猿山さんにお願いしました。

「tayo」はインテリアのシリーズで、市場にはあまりないものを作っています。たとえば床の材料や壁の仕上げは無数にあって、お金さえかければ色も素材も選べます。でもコンセントプレートやスイッチカバーとなると、デザインの良いものは二択くらいになるんです。ほかにもセロハンテープカッターとかトイレットペーパーホルダーとか、探すと良いものがなかなかない。そういうものを去年から少しずつ新しい作っています。

菅野:
猿山さんは手仕事の作家と組む場合と、プロジェクト的な仕事ではどう考えていますか。

猿山:
僕の仕事は基本的に大量生産が前提ですが、一緒に仕事をする相手は、大きな工場から個人の小さな工房まで規模はさまざまで、生産量も作るものもちがいます。プレスするのか、それともヘラ絞りするのか、実現できる形がちがうし、生産効率がちがう。でも、個人でも大きな製鋼所でも、どちらも得意な仕事をお願いしたいと思っています。そういう意味では区別はしていません。

菅野:
よくある手仕事礼讃、手仕事幻想かもしれませんが、それについてはどう感じていますか。

猿山:
カトラリーを生産している工場でのものづくりの実感は、道具が小さな槌(つち)から巨大なプレス加工機に変わっているだけで、手仕事の職人も金工の人たちも変わらないということです。プレス加工機は金属を潰す機械で、トラックくらいの大きさがあって、その大きな力で小さなカトラリーを成形するんですが、そこにはすごい技術が必要です。われわれと一緒にやっている工場の、工場(こうば)長といわれる一番の熟練工以外はその機械を使えない。通常のカトラリーよりも分厚い材料を使って、しかも形が複雑なので、技術を持っていないと力のかけ方がわからず、型を壊してしまうんです。そういうのを見ていると、つくづく手仕事だなと感じます。

新幹線は、民芸という言葉から想像するものとしたら、ちょっとちがうかなと思います。個人の手で同じものを作ることはできるとは思うけど、非効率的でしょう。簡単な道具で作る場合、金属ではかなり装飾的なものか、非常にシンプルなものになる。そういうものの方が民芸には合っていると思います。ただ、それは個人的な感想です。実際には、新幹線のあのノーズの曲線を出すのは、人の手でなければできない。いまだにコンピューターでは制御しきれない。だから民芸のいくつかの条件が合う。そういうものがいくらでも見出せると思うんです。

竹俣:
今、新潟で一番大きなカトラリーメーカーは多分「ラッキースター」だと思うんですが、百貨店に並ぶようなメーカーで、その工場は全部オートメーションです。カトラリーって、1回ガチャッとプレスしたら形になるイメージがあると思うんですが、フォークひとつで5型もあるんです。フォークの股の真ん中だけを抜く型があって、フォークの先だけで2型ある。その型の調整や力のかけ具合を、大きい会社はオートでやれる。

でも「ryo」を作っている「田三金属」というところは、陶芸家の方が使う電動ロクロくらいの大きさのプレス機に小さな型をセットして、過重をかけて、ある部分だけをちょっと抜く。それを何回もくり返して、ひとつのものを作る。僕は最初、機械生産に少し抵抗があって、実際に工場へうかがってみたんですが、そこは機械生産という感じがまったくしなかった。だからお願いすることができました。

僕は、自分の技術は機械レベルまでもっていきたいと思って修業をしていたので、機械みたいに真っ直ぐ切りたいんです。不揃いでなんとなく手作り感が出るものではなく、自分の手作業で機械のレベルまで技術を上げたいと思ってやってきました。でも金属は、手では絶対に曲がらない角度や、切れない厚みがあるんです。

材料に勝てなくなった時点で機械に頼り始めたというのが正直なところですが、手で切れないものを無理矢理、手作業でやって値段を上げる必要はないと思います。たとえば「ryo」で1本3500円で売っているフォークを手作業だけで作ろうと思ったら、1本3万以上になる。そうじゃないと割に合わない。

僕は手で作って値段を上げたいわけではなく、作りたいものを作りたいだけです。だから機械でできるなら機械に任せればいいし、それで10分の1以下の値段になるんだったらカットは機械に任せてしまいます。

プレスで型を抜いてもらい、仕上げは僕の工房で腐食をかけます。1本ずつ黒っぽく変色させて、それを紙やすりで研磨します。僕の作るものは、機能よりは見た目の好みに寄っている。欲しいものが作れるんだったら、機械でも人の手でも、どちらも利用して作りたいと思います。

菅野:
「ryo」のカトラリーは、猿山さんと竹俣さんの役割分担はどうしていますか。

竹俣:
デザインが猿山さんで、仕上げと全体の監修が僕ですが、たとえば値段や大きさ、生産量のことを猿山さんに伝えると、それに合わせてデザインしてくれます。

菅野:
最後に手で古色仕上げをする。その作業を入れないと、満足できるものにならないということですか。

竹俣:
自分のもっているイメージが機械では表現できないので、そこは地道な手作業で仕上げています。

森岡:
ちょっと質問したいことがあって。手仕事って、呪術とか精神性を反映したり、宗教的なものもあるのでないかと思っているんですけど。というのも、私は来年「山形ビエンナーレ」という芸術祭で工芸を担当する予定なんですが、そこで手仕事で精神性を形にしたものを展示できたらいいなと思っているんです。

山形ビエンナーレは東日本大震災の復興のための芸術祭という側面もあるので、そういうアプローチにできないかなと考えているんです。お知恵拝借みたいな感じですが、おふたりの観点から、自然に対する畏敬とか畏怖とか、精神的なものが反映されている工芸で思いつくものはありますか。

私がひとつイメージしたのが、お正月の鏡餅。あれは蛇を模していて、縄文の頃の蛇信仰が現代に伝わっているという話を、塗師の赤木明登さんのテキストを通して読んだことがあって、形として工芸に加えていい可能性があるかなと思っています。作る側、デザインする側の視点から教えていただきたいです。

竹俣:
金属業界の同業者のなかで仏具を作っている人が非常に多いんですが、造形にこだわればこだわるほど精神性から離れていく、という話を彼がしていました。そもそも仏具はなくてもいいわけです。果たして本当に、お供えをするのに足の長い台がいるのか、ろうそくを立てる台がいるのか。日本には「無がある」のような、ないことがあるという概念がある。そういう概念が、形ではない何かで表現できたらいいなとは思います。もしかしたら素材なのかもしれないし、もっとも必要なのは「ない」ことなんじゃないかと思います。

猿山:
お供えや神饌(しんせん)がありますが、インドネシアのバリに行くと、葉っぱの上にご飯を乗せて、火を焚いたりお花を飾ったりして、毎朝神さまに捧げますよね。朝の短い時間のために、きれいに飾るけど、お昼くらいになると、ほうきで端に寄せられている。日本も昔はああいうものだったんじゃないかと思うんです。

日本は古い時代から身分の上下に関わらず、お椀があって箸があって、同じような道具を使ってきました。鹿の首を神饌として捧げたりしますが、それには刃物が必要で、猟にも必要になる。そういう本当に必要な道具は、使いやすいように丹念に作られています。生き物への感謝の気持ちとか、神という存在への気持ちとか、精神性に一番近いのは、そういった道具類ではないでしょうか。

森岡:
山形ビエンナーレの会場はマタギが残っている地域なので、そういう観点から集めたら構成できるかなと、ぼんやりながら浮かんできています。ありがとうございます。

竹俣:
僕は猿山さんと組んで機械生産で作るシリーズもありますが、以前と変わらず全部手作りするものもあります。

修業時代に、金属は材料費が高いので「作りながら形を決めて、失敗したら辞める、ということをするな」と注意されました。「きっちりデザイン画を描いて形を決めてから作りなさい」と。雇われている時はそうしていましたけど、自分の描ける範囲でしか形が想像できないので、独立してからは、材料は無駄になっても作りながら形を決めていく方法をとっています。特にスプーンは触りながら形を決めたい。確かに合理的ではないんですが、そうでないと作れない形もあると思います。

僕は猿山さんがいてくれたから機械生産に入れただけで、猿山さんがいなかったら会社に持ち込む方法もわからなかった。いろんな産地の人と組んできた猿山さんの経験があるからものづくりができていますが、普通はなかなかできないことだと思う。

猿山:
「tayo」で加工をお願いしている「長井製作所」には、ただ切るためだけの機械があって、ものすごく精度の高い加工ができます。そういう機械で作るから、均一できれいな仕上がりです。

でも、同じように作っても1個ずつちがってくるものがある。そういうものに人はどうしても惹かれるんじゃないでしょうか。山や川に行きたいという感情に近いかもしれない。信仰につながるのかもしれません。無駄だと思っている人が多いかもしれませんけど、多分なくならないと思う。世界中にそういうのが残っていますし、日本は特にそうだと思います。

森岡:
私は「洗練と素朴」というテーマに対して、山本昌男さんの写真を取り上げました。山本さんの写真は、まさに手仕事で非合理な側面が強くて、ものすごく美意識を追及している方だと思います。山本さんは日本の電柱のことを問題にされている。電柱がないだけで、だいぶ風景が変わってくるとおっしゃいます。その美意識のあらわれが非合理なものを追求することにつながっているのかなと思いました。

ちょっと話が変わるんですが、柳宗理の本のなかに、ものすごく非合理なことを発見しました。何かというと日本語の扱いです。日本語の処理を美しくしようするあまり、非常に非合理なやり方をしているんです。この本には句点「。」がないんです。

私は銀座の鈴木ビルというところに店を構えておりまして、そこに昭和14年から「日本広告」の後進の「国際報道工藝」という編集プロダクションが入っていたんです。そこのメンバーは日本語の美しさを追求していて、彼らは句点を取ってスペースにしていたわけですよ。スペースで文章を区切っていた。句点が、日本語を美しくないものにしているという認識があったんです。

そういうこともあって、これを読んでいるときに「おっ」と思ったんですよ。柳宗理なのか、エディトリアルデザインを担当した人なのかわからないですけど、かなり徹底した美意識で、普段使っている言語を変えてまでも、美しくしてやろうという気持ちを本から感じました。まさに美意識の現れだと思いました。

会場から:
私はライターなんですが、点と丸が嫌いなんです。文章の流れとして、そこに打たなければいけないのはわかるんですが、見た目としてあまり好きではなくて、変なところに打って編集者に直されることがあります。猿山さんはグラフィックデザインをされますが、そんなことを感じたことはありますか。

猿山:
たとえば3時50分というのを、日本では真ん中にコロンを打つ。それが時間の表記だという認識がありますよね。たとえばCDの収録曲の時間表示は、特に外国のCDだと、けっこう自由な書き方をしています。英語圏とドイツ語圏では全然ちがったりします。

カギカッコもそうですが、引用符も言語によってちがいます。「意味がわかればいい」ということがなかなか受け入れられない。提案しても編集者に切られてしまうことは多いです。

あと、漢字をどんどん使わなくなってきていることにも違和感があります。日本語の活字の組版の美しさを損ねている気がする。昔の筆書きされたものは、丸、点、濁音も使っていないものがありますよね。だからもう少し、縦組みの組版の場合は考えてもいいんじゃないかと思います。

会場から2:
私は、自分が思っていることを正確に人に伝えたいと思って文章を書くことが多いので、その場合に点や丸は有効です。ここでちょっと間を強く置きたいから読点をつける。あるいは句点でしっかり押さえたい。ちょっと不安だから曖昧にしたい時は「・・・」を使ってみたり。日本語の機能として有効で良いものだと思ってきたし、見た目がきれいじゃないとは思いもしなかったので、今、のお話を聞いてびっくりしました。

猿山:
約物(やくもの)や記号類は必要に応じて後から作られたもので、歴史を遡れば遡るほど、ないんです。世界中でそうです。昔は、アルファベットは24しかなかった。日本でも、なくなったものもあるでしょうけど、増えていますよね。道具としての有効性は僕もわかっていて、普段は普通に使っています。ただ、その美しさを追って考えてみる。こだわりがあるというのは、またおもしろいことだと思います。

分藤さん(客席から):
竹俣さんが、自分は作りたいものが作りたい、それがいいと思えるものが作れれば、手仕事であれ機械生産であれ、どちらでもいいとおっしゃっていました。それでも紙やすりをかけるとか、ひと手間かけているというお話がありましたけど、それはもの足りない感じがするからですか。ひと手間かける理由をお聞かせください。

竹俣:
僕たちくらいの組織が新潟の燕市の工場に発注できることは、今までなかったんです。通常1ロット1000本が標準だからです。「ryo」のシリーズは16種類あって、それを1000本ずつ頼んだら大量で、そんなお金払えるわけがない。

プレス自体は、材料1枚から取れるのは100本くらいですが、研磨を産地に任せると1000本からになってしまう。なんでかというと、研磨をする工程は細分化されていて、フォークの股だけ、あるいはスプーンのサイドだけという研磨工程に分かれているんです。研磨屋さんの隣が研磨屋さんで、その隣も研磨屋さん。その1列が工程ごとに分かれているから、世界最大の産地になれた。1工程の工賃が数銭と安い分、大量に作る必要があるんです。僕は聞くまでそういう理由を知りませんでした。

だから研磨は自分でやっています。じゃあ手でやるんだったら、どうやったら良くなるんだろうと考えました。僕は古いものが好きでアンティークに対する憧れが強いので、自分の手で作ってみたいという気持ちがありました。だから「ryo」というシリーズは、自分の欲しいもののイメージに近づけて、カトラリー全般にちょっと古色をかけています。

菅野:
研磨屋さんが最低ロット100だったら機械でやっていた。

竹俣:
かもしれない。自分の作りたいものになっていれば、それでもいいけど、たぶんそうならないだろうと思ったので、自分でやる選択をしました。