工芸のウチ.ソト

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連続トーク

皆川明 + 三谷龍二   司会:菅野康晴

皆川:
今日のトークショーは、結論は出ないけど多様性が生まれているのがおもしろいですね。

三谷:
工芸的なものをみなさんが探っている感じがありました。工業製品と手仕事のちがいはどこか、良いところはどこか、ということをみんなが考えていると思いました。

皆川:
ものを作るとき、イマジネーションが技術をとおして手からものに込められて、そのものが使う人に渡ると、次は使う人のイマジネーションを介して、ものが暮らしになじんでいく。「ウチ・ソト」でいうと、作り手は技術とイマジネーションで「ソト」に出していき、使い手が「ウチ」の存在として暮らしに置き換えていく。使い手の自由な許容によって、作り手も自由を得ている部分があると思うんです。

三谷:
生活工芸では、もの作りが作る側から使う側へと発想の仕方が変わったということがいえます。作り手は今まで自分が作りたいものを作ってきたけれど、使い手として自分がどんなものをほしいか、どんなものを使いたいかを考えてものを作るようになった、という転換があったと思う。それは世の中が産業社会から消費社会に変わったことと関係していて、大きな転換でした。

作る人が作りたいものと、使う人が使いたいものは、微妙にずれることがある。そのずれを埋めたのが、生活工芸がやったことのひとつだと思います。

皆川:
ずれから生まれた余白を楽しむ、ということもあるかもしれないですね。

三谷:
作る人は、技術的なことをわかってほしいと思いがちです。でも使う人は、そこにはそんなに興味がない。使いやすければいいし、使って気持ちが良ければ、それで十分。なのに、作る人には思い入れや思い込みがあって、ずれを埋められない時があるんですよね。

ちょっと前の世代の作り手には、その思い入れや思い込みを使う人に理解させようとしたところがあったと思う。でもそうすると作家の思いが重く感じられたり、暑苦しいものに感じたりする。作り手の思いをできるだけ排除して、もっとフラットに、自由に、普通の生活に馴染むようなものを作った。生活工芸はそういうものだと僕は捉えています。

皆川:
クラフトフェアのような、作り手と使い手が対面する機会は重要ですね。作る人がどんな人で、どんな気持ちで作っているのか、そこに喜びがあるかどうか、使う人からは見えづらい。作り手も使い手も幸福かどうか、ものを介して確認できる場だと思います。

三谷:
作り手の顔が見えれば使い手も安心できますね。思い描いていたイメージが壊れる場合もありますが。

皆川:
ボーダーじゃなかった、みたいな。

会場:(笑)

三谷:
今までは、作り手はちょっと奥に隠れていて、威圧感に近い雰囲気で「工芸はすごいものだ」という感じを演出していた面があるけど、生活工芸では本当に必要なものは何かを見えるようにしたと思うんです。

皆川:
生活工芸のものは、物質的な価値だけではなく、感情的な価値、つまり愛着あるものになり得たのが、いいですね。

三谷:
戦前の民芸の時代とちがって、現在はみんなのデザイン感覚が良くなったと思うんです。そういうなかで良いデザインだけではない、もう少しニュアンスのあること、それが工芸的な何かだと思うんですが、そういうものを求めている。今日は話を聞きながら、その「もうちょっと」何かを、みんなが探しているように感じました。

皆川:
民芸の無名性、アノニマスの価値というのは、あったわけですよね。名前があるから価値がある、ということの裏返しだと思うのですが。今は、作家名があっても価値があるわけではない、といえてしまう。

三谷:
昔のような、「先生」みたいな人はいない。みんな普通の人ですよね。

皆川:
それはずいぶん変わったことだと思います。

三谷:
良かったと思いますよ。生活者の気持ちやほしいものがわかる、今はそういうことが作家の評価になります。逆に名前とか権威的なものは評価から落ちていったのだと思います。

皆川:
無名性に価値を見出さなくても、お互いに顔を合わせながら自然体でコミュニケーションを取れる状況になったんですね。

三谷:
皆川さんが描いた「ウチ・ソト」のマークは、内側に向かっていくベクトルと外側に向かっていくベクトルがあって、ものを作る人間には両方があるように思います。皆川さんは外に向かっていくベクトルも大きい人だと思うけど、内側へのベクトルについてはどうですか。

皆川:
図案を描いて、ウールにするかシルクにするか、どんな織りにするか、というところまでが、テキスタイルを作るうえでの僕の仕事ですけど、まずは想像のなかに飛び込むんです。そこで言葉にできないことを形に置き換える。それが形になった途端、僕のなかでは言語化できているんです。どういう感情で、どういうプロセスで形になったかを説明できる。だから、内側に向かっていく時は、まだ言語化できないものを探りながら想像をふくらませて、いろんな物質をくっつけ合わせている。ひとつの布になったら、なぜその布を作りたかったかということも明確に言語化して、外側へ向けて伝えられます。

三谷:
作家というのは、作る才能はあるけど、それを言語化して社会に伝えることは不得手な人が多いと思うんです。内側に向かうエネルギーという、その言語化しにくいところを、皆川さんは外に向けて伝えるという能力があると思う。

皆川:
洋服作りは分業で成り立っていて、プロセスのなかに工場の人にだったり、必ず誰かに伝達することが必要になってきます。言葉で伝えるしかない場面があるので、だんだん伝えるのが自然なことになったんでしょうね。

三谷:
映画監督や指揮者、デザイナーもそうですけど、言葉を使って伝える能力が必要です。個人で工房をやっている人とでは仕事上の環境のちがいがありますが。

皆川:
同一人物のなかの「ウチ・ソト」ってこともあるし、作る人の「ウチ」と、菅野さんみたいな、作者の意図を汲んで言語化してくれる人がいて「ソト」が成立していることもありますね。

三谷:
ウチとソトは直につながっていない時でも、ソトへ向かう表現がなんらかの形でウチに向かう力として役に立つことがあると思うんですね。

皆川:
三谷さんのおっしゃった「ずれ」からの新しい気づきかなと思うんですよ。作り手と使い手の思いにずれがあった時に、作り手は新たな発見ができる。「あ、なるほど」という気づきになることが僕は多いです。

三谷:
具体的には。

皆川:
自分の頭のなかにあるプランが、共同作業をしていくなかで少しずつずれていく。ずれるというのは、選択肢が見えてくるというか。その選択肢を選んでいくうちに、最初のプランとはちがう方向に行くことがあるんです。さらに洋服になって、着方であったり、コーディネートであったり、あのポケットの位置だとこんな仕草になるのか、とか、そういう気づきがあったりします。

三谷:
ものを作っているうちに、どっちが良いかを選択することはありますね。その時、自分が作り手でありながら、使い手の目を反映しているのではないでしょうか。作り手としては「こっちに行きたい」という気持ちがあっても、使い手としての目が「あっちがいい」と言う場合もある。作り手と使い手の目がせめぎあったり、和解しながら、ものは作られていく感じがあります。

皆川:
シンプルな言葉でいうと、それはサービスだと思うんです。使い手の仕草だったり、使い勝手だったり、使う人の喜びを考えるのはサービスだと僕は思うんです。

三谷:
ビートたけしが、昔、浅草の演芸場で自分を晒しながら舞台に立っていた経験が映画を作るときに生きてくる、というような話をしていましたけど、サービスっていうのは、目の前にいる人が何を求め、どういうふうにあってほしいかを、頭ではなく身体で反応するようなことだと思うんです。作る人間には、演芸場に立つような、客にサービスするような経験が大事なのかなと思う。

皆川:
サービスは、リクエストに応えるのではなくて、作り手が想像して自らやる行為ですよね。そこに価値があると思うんです。リクエストに応えるだけでは予想を超えた喜びは感じづらい。でもサービスは見る人の新しい喜びにつながります。

三谷:
皆川さんは絵を描かれますが、絵を描くこととテキスタイルを作ることに、ちがいはありますか。

皆川:
テキスタイルの図案は、四角に絵を描くけれど、その四角のなかで完成するわけではない。型紙をここに置くから、このモチーフは前身頃のこの辺がいいな、とか思いながら描きますから。でも絵は、絵そのもので着地できるので規制がないというか、より解放された構図で描けます。
絵は思考に近くて、テキスタイルはものに近いといえます。絵は、自分の思考やイメージを描くこと。テキスタイルは、テクスチャーを含めてものを作っていくこと。それが大きなちがいだと思います。

三谷:
皆川さんは忙しいのに、新聞の連載とか、絵の仕事を積極的に引き受けているじゃないですか。それはどうして?

皆川:
それはですね。話をいただいたときは無理だと思ったんですけど、砂をパンパンに入れたコップも、もうひと押しギュッとやると、細かい空間が埋まることありますよね。

会場:(笑)

皆川:
その隙間を作ってみる時期なんじゃないかと思ったんですよ。日経新聞の夕刊に掲載する川上弘美さんの連載小説の挿絵を頼まれたんですけど、毎日っていう制約は大きいなと思いながら、でも頼まれるってことは、僕ができると思ってくれているのだろうなって。自分のギリギリがどのくらいなのか興味が湧きますよね。

三谷:
楽したいって思わないの?

会場:(笑)

皆川:
いつも思うんですけど、絵を描くことは僕にとっては楽な状態です。三谷さんもそうだと思うんですけど。

三谷:
うん。好きなんですよね。今日のいろんな話を聞いてきて、どうですか。服作りという立場は、ちょっと工芸を外側から見る感じですよね。

皆川:
そうですね。服作りは、ひとりでは完結しないですし、機械でやる部分がとても多いので、ほかの出展されている方の工芸への認識とは、僕はちがいますね。僕が今日ここに辛うじて混ざっているとして、いつの時代か「そこまでは普通に工芸だよね」となるかもしれないし、「やっぱりちがう」となるかもしれない。その定義のボーダーラインにいるような、おもしろい立ち位置にいると思います。

三谷:
今回、森岡書店で絵画の展示がありますけれど、その方は昔から家で根来(ねごろ)塗りを使っていて、その感覚が好きで、絵を触ってほしいから「触る絵画」をやっていらっしゃる。ツルツルしているとか、ザラザラしているとか、そういうことを楽しんでもらって、絵を身近にもってきてほしい、という思いがあるんですね。絵を持ち運べるように木の板に描いているんです。絵画は遠くにあるものではなく、ポケットに入れたり、触ったりもできる。そういう発想がおもしろいなと思いました。

皆川:
そうですね。すごく新鮮でした。

三谷:
日本人の工芸的な血がそうさせるようなのかな、と感じました。

皆川:
ああいうふうに、キャンバスになっている絵を触ることに驚きましたけど、絵皿だったら触りますよね。器は触ることが当たり前になっているけど、壁にかかっている絵を触るのは、意外に感じる。

三谷:
「触る絵画」なんて、普通は思い浮かばないですよね。でも、子どもの時から漆塗りを触っているうちにそう思ったというのが、おもしろい。そこには、工業製品だけではもの足りない何かが、工芸的なものにはあるのだろうし。たとえば、食事会で料理家に器を選んでくださいと言って、工業製品と作家ものを用意すると、作家ものを選ぶ方が多いんです。どちらも僕が用意したものだから、わずかなちがいしかないのだけれど、その微妙なちがいもわかって、やっぱりこっちを使いたいと思われる。その辺に工芸の可能性を感じます。

菅野:
2回目のトークでの、土器作家の熊谷さんの発言が印象的でした。熊谷さんは現代美術のギャラリーでも展示をしていますが、会場からの質問でアートと工芸のちがいを聞かれて、自分の作ったものが器であろうとオブジェであろうと、家庭のなかに置いてほしい、と言っていた。美術と工芸が分かれる以前、人は道具やものとそういう距離感で接していたんじゃないかと。皆川さんのコメントの「工芸の価値は生活のなかにあってこそ」という言葉とも重なります。

三谷:
仕事をはじめたころ、工芸や美術が生活から遠くなったことを感じていて、それをどういうふうに身近に近づけることができるか。そう考えて、僕は木で器を作ることをはじめました。
単にものを見るだけでは、親密性がなくなってくる。触れたいとか、身近に置きたいとか、自分の肉体に近いところにもってきて、食べものを食べるのと同じような感じで、ものと暮らしたいという思いが人にはあると思う。近づける方法としては、毎日使っていくこと。「見る」とは、かなりちがうことです。

生活工芸の人たちは、それを感じてきたんじゃないかなと思います。「使う」というのはジワジワと浸透するような伝え方だけど、その浸透力みたいなのが生活で使うことにおいては大事な要素だと思うんです。

皆川:
僕はそもそも美術と工芸の境界線はどうでもいいと思っていますけど、あえて言うなら、美術は「愛でる」という感覚で、工芸は「愛おしい」という感覚かな。ものに対する人の気持ちのちがいが美術と工芸の分かれ目になっているのかなと思います。

三谷:
工芸はジワジワと伝わってくるけれど、美術の本当にいいものは稲妻に打たれたような感じがしますね。そういうのは工芸には少ないかもしれない。絵と工芸の価値はちがう質のものであって、どちらも素晴らしいものです。

皆川:
今、ふと思ったんですけど、工芸と農業で、作り手の思いはちがうのかなぁ。近いものがありそうですね。さらに「工芸は生活とともにある」と思いました。

菅野:
僕は、工芸と人間は切っても切れないもので、「道具を作る動物が人間」というくらいに思っているので、工芸とは何かという問いは、人間とは何かに通じると考えています。

菅野:
三谷さんは、かつて自分がものを作りはじめたのは、使い手と作り手の思いのずれを埋めるためだった、と話していましたが、そのずれは今でも感じていますか。

三谷:
そうですね。生活は豊かですし、もの作りは奥行きのある世界ですから、その間には無限に新しい組み合わせがあると思います。社会とか生活に深く根を下ろすためには、もの作りは生活とつながっていくことが大事だと思うんです。作家の思い込みと、社会の求めるもののずれは、いつでも修正していかないと、すぐに作家は自己満足的に舞い上がりますから。

会場:(笑)

三谷:
作家は、そういう傲慢なところが必ずあるような気がしますよ。

菅野:
皆川さんは蚤の市について、自分の人生より長く生き残ってきたものの魅力と出会う場所と書いていました。

皆川:
蚤の市だけではなく、たとえばエジプト時代に作られたガラスが何千年も残っていることも、すごいなと思うんです。自分が生まれていない時に、知らない土地の知らない人が作ったものが目の前にある。そして、それに自分が共感していることの不思議さ。僕らの持ち時間は、ものから比べたらとても短い。でもそのものを作ることができる。その関係性もまた、おもしろいです。

菅野:
オオヤさんが、三谷さんや工芸の作家と話していると、過去に対するリスペクトを感じると話していました。継承の意識があり、それが工芸の良さではないかと。今の皆川さんのお話とも重なりますね。

発言者(会場から):
貴重なお話をありがとうございました。おふたりの言葉を聞いて、謙虚だなと感じました。作り手と使い手のずれのことであっても、三谷さんは作り手の思い込みを極力取り除かないといけないとおっしゃって、皆川さんはそのずれをポジティブに捉えて、そこから作り手は新しい発見ができる、と。謙虚かつ前向きだなと感じました。
皆川さんはこれまでたくさんのテキスタイルの図柄を作ってきていますが、自分はすごく良い、自信作だと思ったのに、あんまり売れなかったとか、スタッフには評判が良くなかったとか、そういうことはあるんですか? もしあれば、そういう時にどう感じるかをお聞きしたいです。

皆川:
自分が満足していないものは出してはいけないという前提はありつつ、ほめてくれそうな時しか、スタッフには見せないようにしています。

会場:(笑)

皆川:
描きながら、これはこの先も作り続けるものだろうな、あるいは、今、花開くんじゃないか、ということを感じることはあるんです。どれも短命にはしたくないので、僕らは布を繰り返し作るんです。復刻という言い方もしますが。
今、会場前方のみなさんが座っているベンチのタンバリン柄は、ベースの生地や刺繍の色を変えて、ほぼ毎シーズン出ていく柄です。一方で、何十年か前に作った柄を世のなかに出すべきタイミングが来るときもある。なので、(新しい柄を出した)最初のシーズンにどうだったかは、ほとんど気にしていないです。

三谷:
僕はスプーンだと1000円から3000円くらいのものを作っていたんですが、ちょっと大きなレードルやしゃもじを作ったこともあって、10年のうちに1個だけ作ったようなものを、つい最近、遊びに来た料理家が見て、いいと言うので、作ったら買ってくれてね。自分の家で使うぐらいで、売れるものにはならないだろうと思っていたものが、ちがう目の人に触れて、あるいは時間の経過によって求められることがある。それは自分では把握できないことです。

発言者2:
2回目と今回を聞かせていただきました。ファッションの分野でミナは工芸に近い要素をもっていて、日常で楽しめるお洋服だと思うのですが、たとえば舞台衣装のような、アバンギャルドといわれるような、装苑賞などで見られるような洋服は、アートに近いのかなと思いました。
装苑賞みたいな洋服は短命で、ぱっと見てすぐ忘れられてしまうものが多い。でも、アート的でありながら工芸のように長く愛されるお洋服もあって、そのちがいはどこにあるかなと思ったんですけど……。

皆川:
日常的に着る服は、暮らしのなかに順応していくものだと思います。一方、装苑賞のような服は作品的で、日常のシーンに出ることはほとんどない。
たとえば40年代に作られたドレスがあって、それはたった1回の舞踏会でしか着られていないけど、そこに入っている仕事の素晴らしさや職人の高度なテクニックは、決して色褪せることなく、何十年も価値をもっている。そちらの方が、工芸に近いかもしれないです。
装苑賞の服は、若いクリエイターのなかで誰が一番イマジネーションが強いか、未来を見ているかという視点でも審査員が選ぶので、またちがうんですけど。

菅野:
たとえば中国の官窯磁器など、皇帝のために作られた焼きもののように、贅も技術も尽くしたものも工芸のジャンルに入りますよね。三谷さんはそういう工芸品に対してはどう考えていますか。

三谷:
もちろん鑑賞的な工芸でも、美しいものは美しいと感じるし、大きな壺みたいに自分が使わなくても素晴らしいなと思うものはあります。抹茶茶碗も、自分は使いませんけど、素晴らしいものはそう思います。自分の身近には置けないものでも、見ればいいなと思うし、そういうものから学べることはたくさんあるとは思います。

菅野:
自分の生活には入ってこないけれど、見ることで得るものはあると。

三谷:
形や仕上がり、考え方に得るものは大きい。そういうものの良さを、もっと生活に近いところにもってこられないかなと思っています。

菅野:
柳はそういったものを否定していますね。楽茶碗なども。生活工芸派たちはそこまで原理主義的ではありません。それらからも得るものがあると考えている。

三谷:
いいものは良いと言いたいし、その目の自由さは大切だと思います。

菅野:
(客席にむかって)石村さん(※石村由紀子さん、奈良市でカフェ「くるみの木」、レストラン・ギャラリー「秋篠の森」などを営む)、いかがでしたか。

石村さん(客席から):
今日は1回目、2回目、そして今回、聞かせていただいています。皆川さんがおっしゃった「美術は愛でる、工芸は愛おしい」、それから三谷さんがおっしゃった「好きなものは好き」という言葉は、本当にその通りで、どうしようもないんですね。おふた方のお店で、辛いけど買ってしまいました。

会場:(笑)

石村さん:
クレジットカード出しながら自分に言い訳しています。「好きだからしょうがない」。

会場:(笑)

石村さん:
家にブロンズの像があって、いつも見えるところに置いていますけど、いつ見ても愛おしいし、その作家が後ろに見える。それから、ご飯を食べるお茶碗、パンをのせる木の器、カチャカチャ音がしない木のフォーク、いろんな場面で幸せをいただいています。

ここ5年くらい、みなさんそれぞれの言葉で表された「工芸とは」ということを、目にしたり聞くことが多いですが、私は自分の頭が悪いのかなと思うくらいシンプルに、生活のなかが満たされることで工芸を愛しく感じています。私は仕事柄、そういうものとお客さまより先に出会う機会が多いので、みなさんにも見ていただきたいという思いもあって自分のお店をやっています。

先ほど皆川さんが「これから工芸の仲間入り」とおっしゃっていたんですけど、私は皆川さんの作られるお洋服を、生地も含めて工芸としか思っていなかったです。包まれて幸せになるものですから、まさに生活を楽しむことにつながります。ですから皆川さんの服も工芸に入ると思っています。以上です。

皆川:
そういえば、安藤さんの家に、土をグニャグニャに練り込んだ四角い形に銀彩を塗ったものがあるんです。器の形ではないので、アートピースになると思うんですけど。それを見た時に「お香立てに良いな」と感じたんです。微妙に隙間が空いていて、お香がピッと立つし、銀彩のうねうねしている様子が、まさに煙。その煙のような塊から、本当の煙がフワァッと立つ。安藤さんがアートとして作ったものを道具として使っている様が、インスタレーションやアートみたいに見える。僕らは見立てる心をもっているから生活が豊かになるんだと思います。

三谷:
石村さんがおっしゃったように、難しいことを生活道具で語る必要はないですよね。使って楽しい、使い心地が良い。それでいい。ただ、六九クラフトストリートは男性ばかりでやっているもんですから、男性が集まると理屈っぽくなりますね。