工芸のウチ.ソト

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連続トーク「工芸と工業製品」

オオヤミノル + 小林和人 + 猿山修   司会:菅野康晴

小林:
オオヤさんが出展したものについて書かれた、金属の質についての部分を、もうちょっとくわしく聞かせてください。

オオヤ:
コーヒーミルのなかで、手回しミルが一番いいなと僕は思っていて、その良し悪しの話です。鋳物は、1910年、11年のイギリスのものが最高なんです。材質が良いということは、味が良くなるということ。でも、ほとんどがコーヒーをおいしくするために作られたわけではない。買いやすくて、壊れなくて、より早く挽けて、というような、味ではないニーズでできている。そのなかで偶然おいしくなるものがある。これは日本のコーヒーミルでも、たまにあるんですけど……という話を書いています。

もう少しつけくわえると、京都に僕がいつも行くバーがあって、1970年代までに瓶詰めされたオールドボトルというウヰスキーやコニャックを専門に売っているんです。瓶のなかで熟成しておいしくなるのかと思ったら、そうでもない。1965年が、世界で鉄からステンレスに、木からプラスチックに変わった年で、そのときにすべてが変わった、人も、作り手も。と、そこのマスターは言うんです。僕には、それがすごく興味深くて、そういうところに思いを馳せて、ものづくりをもう一回見直せたらと思います。

小林:
オオヤさんも猿山さんも、生まれた年が近いですね。

オオヤ:
1967年。

猿山:
ひとつちがいですね、1966年。

小林:
おふたりとも65年以降ですね。

オオヤ:
幼稚園くらいの頃に、テレビのニュースで六価クロムがどうとかやっていて、うちのお母さんがアルミのおたまにそれが入っていると……うろ覚えで恐縮ですが、公害の話です。そのへんから日本がいろいろ変わってきたのかなと思います。

小林:
具体的には。

オオヤ:
気づけば、世のなかで売っているのは、ダイエーの生活用品売場にあるようなものがほとんどでした。コーヒーの器具に関してもそうです。僕は形から入るのが大事だと思っているんですけど、当時はコーヒーの道具があまりにも素敵じゃなかった。やっとVONO(※HARIO製のドリップケトル)を見つけて、中川ワニと「いいよね」って。

小林:
20歳前後の頃ですか。

オオヤ:
焙煎をはじめようと考えたのが25歳頃でした。90年代、バブルは終っていました。バブルといえば猿山さんも三谷さんもそうだったと思うけど、あの頃、見るべき美しいものは、西武(※かつて西武池袋本店内にセゾン美術館があった。1999年に閉館)が紹介する美術以外にあったのかなと思います。

小林:
一方で猿山さんは同時代に、はじめてのお仕事をされていた。それが婦人もののブラウスだったと聞いて、意外でした。

猿山:
90年代です。まあ、短かったですけど。

小林:
その頃から今に至るまでデザイナーという肩書きですが、工芸とはどう関わってきたんですか。

猿山:
グラフィックの仕事をやろうとしたけど、バブルは崩壊していて仕事がなかった。できることはないかと模索するうちに、ものづくりに関わっていくことになりました。実際に作っている人たちに会ったり、もっといいものを作れないかと古いものを参考にしたり。ものづくりをしていくなかで工芸を意識するようになりました。

小林:
今回、展示されているのは金属製のスイッチカバーですか。

猿山:
電気のスイッチプレートや、エアコンの集中リモコンのサイズに合わせました。気に入らないインテリア小物をそっくり覆ってしまおうと。

小林:
自分の店舗を移転するとき、スイッチを隠すのにどうしたらいいかなといろいろ考えたんです。前の店舗では、工具箱を縦に取りつけて郵便ポストにしていたので、移転後はそれを横に取りつけてスイッチを隠しました。既製品だとなかなかないので、作りたくなる気持ちがわかります。

今回、自分は工芸の「ウチ」が手仕事で「ソト」が機械生産だという解釈をしましたが、工芸と工業製品の境はあるのか考えて、結論は出ていないのですが、両者の間はグラデーションみたいで、明確な線が引けるわけではなく、地続きのうえにあるように思います。今回、猿山さんが設計されたカバーは、工場でベースを作って、竹俣さんが手で仕上げるという、工芸と工業製品が合わさった感じですね。

猿山:
古い時代の工芸は、手でも機械でも作って、ある程度の大きさを超えて工業製品になっていく。ウィリアム・モリスが、あるいはウィーン工房の人たちが手仕事に回帰して、ひとつの値段は高いけれど、おもしろいものを作るということはありました。でも、その境はわからない。

小林:
最初は手を使い、それから棒切れのような道具を使うようになり、歯車の発明があって、自然を動力とする風車や水車のような技術が発展して、さらに蒸気や電気などの力を利用して、どんどん連続的に変化していった。「ウチ」「ソト」と分けはしたものの、はっきりと線を引くのは難しいと思いました。

オオヤ:
ちょっと質問があるんですが、民芸は工芸のうちに入るんですか?

小林:
そう思います。去年の暮れにそういうことを考える機会があって、思い至った自分なりの結論は、民芸は産業としての手仕事。反復生産を旨としていて、実用性のある道具をくりかえし一定の質で作っていく。人力がベースとなった労働制というのが前提としてある。産業と言い切ってしまうと、捧げるための儀礼的なものを取りこぼしてしまうかもしれないけれど、反復生産というのが、民芸を語るうえで重要な要素ではないかと思っています。

オオヤ:
当時、機械があったと仮定したら、民芸でもいち早く取り入れていたと思うんですよ。たとえばロクロをひく人は機械を工夫するし、漆を塗る人は大量のお箸を塗るときにやりやすい治具(じぐ)を作るじゃないですか。ということは、民芸の現場のマインドは、今の工場とそんなに変わらないんじゃないかな。

小林:
確かに。ある一部においては、例えば、複数性、分業性、無銘性といった部分では変わらないと思います。

オオヤ:
僕は、民芸は工場だと思う。それが、なんで工芸の仲間入りをするのか不思議なんです。

小林:
自分は、工芸という大きいくくりのなかに、民芸があると認識しています。自分にとって工芸は平たくいうと、手仕事です。たとえば武道とか舞踊のように、修練によって獲得された技能や、身体に刷り込まれた動作が反映されているかどうか。それが、そのものづくりが工芸かどうかを決定づけると思っています。

ただ、工場で作るものも、機械を動かす職人の勘や経験が大きく関わる。ひと昔前の機械、たとえば活版印刷の機械などは特にそうかもしれません。さらには、機械を動かすこと自体に相当な体力を要求される場合もあるでしょう。

猿山:
僕は今、大量生産の現場に多く関わっています。たとえばカトラリーを竹俣勇壱が作っているのを見ると、道具が小さい、動きが小さい、音が小さい。機械生産はその逆です。10回叩いて凹ますところ、機械では1回で同じだけ凹ますことができる。1本作るのに2秒しかかからないけど、機械の調整には2、3時間かかる。1回の調整で済む場合もあるけど、それは限られた職人さんにしかできないことです。さっきの活版印刷もそうですけど、あれも身体を使うし、動きは大きくて、組版なんて、ものすごく重いですよね。あれを見ていると、工芸的ですよね。

小林:
全自動でバンバン刷るのに比べれば、活版印刷は工芸寄りだとは思います。猿山さんが機械生産したものの最終仕上げを工芸の作り手である竹俣さんに委ねる理由は、どこにあるんですか。

猿山:
まあ、差別化ですよね。僕は古いものを扱っていますから、経年変化に魅力を感じます。きれいに仕上げると、あとは古ぼけていくだけです。鏡面加工したステンレスは、一週間も使えば細かい傷がついて曇ってくる。それが1年、10年経つと、みすぼらしくなる。100年も経てばいいのかもしれないけど、すぐさま魅力的には変わらない。そういう嫌な変化を見ないで済むような仕上げを考えて、ああいう古色仕上げになりました。

指導して工場でやってもらうやり方もあるんですが、何万という数を用意して、人を手配しないといけない。だから結局、竹俣さんのアトリエでやっている状態です。今回、展示したスイッチカバーですが、ここにあるのと実際に売っているのとでは、仕様がちがいます。展示用に提出したときに納得できなかった部分を、販売用では反映させた。じつは作る工程でも、もう少し竹俣さんに入ってもらったんです。心棒がステンレスだったものを、彼が真鍮に変えました。

小林:
彼なりに後々の変化を見込んで。

猿山:
そうですね。色味もちがいますし、真鍮はより変化しやすい。あと、工場ではレーザーで切ってパーツとして次々と仕上がってくるものなんですが、あれは彼が手で加工してセットしました。完全に工芸寄りの仕事です。

菅野:
先ほど猿山さんが言った差別化というのは、機械で作られた金属のカトラリーでも、金工作家の竹俣さんの手が入ることで、工場で大量生産したものとはちがう手仕事性が生じる、ということですね。そこで生まれるちがいとはなんでしょう。

猿山:
古いものの魅力でしょうか。たとえば今から100年から150年前、焼きものでも金属加工でも手仕事と工業製品の間みたいな仕事が盛んに行われている頃のもの。それから初期型の車でも、職人の勘に頼って成形している部分が多い。そんなものには手の仕事が表に出ている。

菅野:
「手の仕事が表に出る」ことで、それを使う側にはどんな良いことがあるのでしょう。

猿山:
ちょっとちがうな、というくらいだと思います。ただ、表面の仕事だけではなく、彼と作っているカトラリーは、通常の2倍ほどの厚みのステンレスを使っているんですが、機械でやっているのに、手の仕事に近い微妙なズレが出るんです。それをさらに強調するような表面の処理をすることで、普段使っているものとのギャップを感じさせたいと思っています。

菅野:
先ほどオオヤさんは、かつての民芸の生産現場は「工場みたいなもの」と言いました。確かに、量産のための道具という意味では、ロクロは機械的です。その前に言われた1965年の境があるとの話もおもしろかった。つまりそれ以降の機械はより精密になり、基本的には全部同じものができてしまう。それ以前、たとえばロクロのような古い機械は、一点ずつちがうものができる。じつは私たちが機械生産と手仕事の差といっているものは、オオヤさんの言う1965年以前と以降の機械の差と変わりないかもしれない。機械か手か、ということより、できあがるものがひとつずつちがうことに、人は惹かれてしまうのではないでしょうか。

オオヤ:
ものを作ったり、紹介する人たちよりも、それを使って良しとする人たちに大きなウエイトがあるんじゃないかなと思うんです。 工業製品でも個々にちがうじゃないですか。特に、新興国といわれるような国で生産されるものは、おんなじ形らしきものが置いてあるけど、全然ちがう。あのなかから良いものを選ぶことが、ビンテージであったり、プレミアであったりする。確かにグッときますよね。 猿山さんのお仕事はそういうことに近いんですかね。工場で作って、もう一回なんかややこしいことをして、良いものにしちゃう。

菅野:
小林さんのコメントがおもしろくて、あの金属の工業製品も100年経ったら手ずれが生じて、手仕事製品に近くなるかもしれない、と。マニアですね。

会場:
(笑)

小林:
自分がそういうものに惹かれるのはなんだろうと考えた時に、ひとつのエピソードを思い出します。

昔、自分の店に置いていた海外の蚤の市で買った古いハサミを、アーティストの鈴木康広さんが買ってくださって、しみじみ「これ、いいですよね、情報量が多いですよね」とおっしゃったんです。鈴木さんは蓄積された痕跡の度合いだったり、他動的な経年変化だったり、そういうものを情報という言葉に置き換えたと思うんです。
均一に作られたものに手仕事のフィニッシュを加えることによって、手がもたらすリアル、作り手の癖だったり、体調だったり、そういったものが、いい塩梅で反映されていたら、それはプラスの情報としてそのものに価値を付加するんじゃないかと思うんです。

菅野:
オオヤさんのコーヒーの味は1杯ごとに異なるのですか。それとも同じ味を目指すのですか。

オオヤ:
食品全般にいえるのは、製造して、完成してから毎日味が変わっていくことが前提です。味が止まっていることは、ほぼない。だから再現性は求めないです。データとして同じものを出すことはあるけど、データで出せる同じものは、僕ら食品加工業のなかでは非常にレベルの低いところのものなんです。これはもう、大手メーカーでポテトチップスを作る人もアイスクリームを作る人も共通だと思います。

再現性ということをやると、食品に関しては、たぶん良からぬことがはじまる。僕らが見ている文化圏では、味を止める、色を止める、酸化の過程をリズミカルにする、それでいいことが起こった試しがない。
コーヒーの原材料は、果実の種の乾物です。流通の過程で湿度やらコンディションが変わるし、そもそも今年作ったものは、来年は出てこない。だから、ニュアンスとしての精度は合わせても、厳密にはこだわらないです。たぶん板前さんなら、よくわかってくれると思います。明日おんなじマグロは入らないから、みたいな。

それよりも、うまいかまずいかの一線を自分のなかにもって、積み重ねた、より高いところを来年は出したい、再来年はそのさらに上を出したいと思うんです。今回の展示をとおして、コーヒーは民芸ではないけど、工芸的かなと思いました。

菅野:
コーヒーも工芸。

オオヤ:
味は手で作っている。もうひとつ大事なのが、積み重ねたものであること。自分が尊敬する人たちに積み重ねていく。前世代へのアンチテーゼで売る人はいないじゃないですか。何かに対するカウンターでビジネスを広げていくのは、やりやすし、売りやすいんでしょうけども、まずいなと思うことのひとつ。時代は変わったよ、と思う。

三谷さんですら積み重なっているんじゃないかと思います。『広辞苑』で調べてみたんですけど、工芸には「積み重ね」ということは書いてないですよね。

小林:
積み重ねてきたもの、というのは、しっくりきますね。『広辞苑』にそのことが書いてないのは、前提として当たり前すぎるからでしょうか。

オオヤ:
でも今の社会では、積み重ねるよりもカウンターで自分たちを表現したり、宣伝したりする。買う人も積み重ねていないんじゃないかと思うんです。買う人の問題は、1回しゃべるべきだと思うんだ。僕は気になります。

小林:
昔は大家族で、おじいちゃん、おばあちゃんのときから、あるいはそれ以前から大事に使っているものがあって、小さいころから親しんで、というように親から子へ受け継がれるものがあった。でも核家族化して分断された部分があって、受け継いでいくことに漠然とした憧れはあるかもしれないですね。

オオヤ:
でも、それはストーリーとしての積み重ねであって、物語化されたものは消費されるスタートだと思っているんです。ストーリーになったときに、積み重ねじゃなくて消費になる。僕も「今日はおばあさまがもっていたコーヒーミルでコーヒーを挽いて飲んできました」って言ってみたい。物語を安易に消費するのは、アトラクションとしては気持ちいいですからね。
でも、たとえばシングルモルトを物語として飲むのって、あんまりカッコいいことじゃないと僕は思うんです。単に「味がうまいから」とか、自分の人生や今日の仕事において、あるいは明日へと続く毎日において、シングルモルトを飲んだ時に「うまい」っていうのが本当だと思う。コーヒーもそうなんですよ。だから物語はいらない。みなさんが自分の物語をもつのは勝手ですよ。

コーヒーには、まだまだいろんな可能性や知られざる歴史があるんですけど、一部しか紹介されていない。もし機会があったら飲んでみてください。僕以外でも、東京はたくさん作っている人がいるので。好き嫌いも味のバリエーションのひとつです。

菅野:
会場の皆さん、いかがですか? 三谷さん。

三谷(客席から):
工業製品と工芸のなかで僕たちはものを作っていて、作家の思い込みとか、独りよがりとか、そういったものを戒めてくれるもののひとつとして工業製品があるような気がします。
機械生産のものは無機質だけど、変に甘いところがなくて、そこに使っていて救われる面もあるんですよね。微妙なニュアンスが工業製品と手仕事にあって、猿山さんは、その微妙なニュアンスのところをやろうとしているんじゃないかと思うんですけど、いかがでしょうか。

猿山:
そうですね。たとえば、単純に形やデザイン上の問題で、この急須のつまみだけ替えれば全部がきれいに見える、という提案をするような仕事が僕は多いです。もともと素晴らしい表面をもっているものに改良点を加えていく、というのがほとんどです。
古いものを見ていると、釉薬が薄すぎて強度に不安はあっても、薄くかかっているがゆえに、もともとの器の良さが残っている。そのおもしろさを狙っていくこともあります。

オオヤ:
今の猿山さんが言われたのは、なんていう名前の仕事になるんですか?

猿山:
うーん……デザイン?

オオヤ:
その意識とか欲求は、工芸ですか、どうですか。

猿山:
なんでしょうねぇ。自分が「これが良いな」と思う体験は、極めて工芸的です。一方で取り組むべき製品の、まちがってしまったのは何が原因なのか、再生するためには何が必要か。実際にそれができる技術をもった人たちと話していくことは工業的です。工芸と工業では何百年もなんら変わっていないですね。

小林:
その辺が、僕が工芸と工業の境がグラデーションである、地続きであると思う所以です。道具と道具じゃないところの境ってなんだろうとか、そういう話になると、いくら時間があっても足りないと思うので、また夜の飲みの部ででも。

オオヤ:
たとえば、フライターグ(※FREITAG、1993年にスイスのチューリッヒで創業したメッセンジャーバッグのブランド。製品はトラックの幌を再利用して手作りされ、ひとつとして同じものはない)は、一緒のものができないように、システムとか、もののフォルムのデザインをしている。
「これは人の手が作ったものだ」とお客さんに言うよりもわかりやすく、一個ずつ形のちがうものを欲する人の気持ちにアプローチできる方法というか、自動的に出すシステムを作れることに可能性を感じるんですよね。

小林:
それは、再現性がないことを売りにする、という仕組みを作る、とか。

オオヤ:
まだ僕らが思いついてないことが、あるかもしれないよ。思いつきで恐縮ですが。

菅野:
フライターグの工芸性というのは、さっきオオヤさんがおっしゃっていた継承性の話にもなるし、おもしろいテーマですね。

小林:
フライターグに工芸性も感じるんですけど、偶然性を工業製品化するということでもあるのかなと思います。

オオヤ:
工業製品というカテゴリーにおいて、偶然性を保有したシステムを作っているわけですね。

菅野:
偶然性、個別性の排除が、工業製品が歴史的に目指してきたことなのに。

小林:
あえて取り込むっていうのは、画期的ですよね。