すぐそばの工芸・考

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「すぐそばの工芸・考」トーク

井出幸亮(編集者)
小林和人(「Roundabout」「OUTBOUND」店主)
猿山修(デザイナー、「ギュメレイアウトスタジオ」主宰)
菅野康晴(『工芸青花』編集長)
竹俣勇壱(彫金師、「kiku」「sayuu」店主)
三谷龍二(木工デザイナー、「10cm」店主)
皆川明(「minä perhonen」デザイナー)
森岡督行(「森岡書店」代表)
山本忠臣(建築家、「gallery yamahon」主宰)

皆川:
3部は、まとまるようで散らかる予定でございます。最後10分ぐらいみなさんからご質問をお受けしようかと思っておりますので、ご希望の方はご用意ください。では、三谷さん中心にお話いただいてもいいですか。

三谷:
六九クラフトストリートは、最近では、ほぼこのメンバーで固定化してやっています。みんながそれぞれいろんなことを経験して、1年経ってまた話すと、同じような話だけど少しちがってくる。そのくり返しがおもしろくて続けています。

まず井出さんに質問があって。『サブシークエンス』で「折衷的工芸」という表現がありましたけど、あれはどんなニュアンスですか。

井出:
『サブシークエンス』のキャッチコピーのようなものがあって、「Arts&Crafts for the Age of Eclectic」と書いていたと思うんですけども、美術と工芸ですね。「Eclectic」は……

皆川:
2つの要素が折衷している、くっついているということ。

井出:
そうですね、2つ以上の要素が折衷しているという意味です。現代の情報環境とか、グローバル化ということまで表現していいかわからないけど、人、もの、情報、お金、あらゆるものが流動化していて、どんなものでも手に入るし、見られるし、感覚的にボーダーがなくなっている。おそらくここにいらっしゃるみなさんもそういうことは感じていると思います。

誰もが古いものも新しいものも、海外のものであっても日本のものであっても、自在に楽しむことができるようになっている。そういう環境から以前はなかったようなものが生まれてくることもあるのではないか。たとえば地球の裏側にいる人が、日本の工芸からインスパイアを受けて何かを作る。そんなことが可能になっていると思います。工芸という枠組みも広がっていると感じて「折衷的工芸」と謳いました。

皆川:
三谷さんはその言葉に目が留まったとき、どう感じたんですか。

三谷:
日本の古い伝統があって、一方で、今の僕たちの暮らしは西洋化している。自分たちが作っているものを見ると、その両方が合わさったような、どっちにも転んでいない感じがするんです。今の時代、外国の人たちも僕たちが作ったものを普通に使えるようになっている。そういうベースができているんですよね。そこがおもしろいなと思うんです。

皆川:
日本に西洋の文化が入ってきても、日本古来のものも残っている。それぞれもあるし、その折衷的なものもある。要素は増えて、何かが失われたことはないような感じはありますね。

三谷:
たとえば中国では、古い時代のものを壊すというやり方をしてきたので、日本で400年続いているものが向こうでは続いていないことがある。彼らは古いものに対する視点を持っていないので、日本へ興味が向くんじゃないかと思うんです。

小林:
質問していいですか。2部で皆川さんが民芸と生活工芸は双子のような間柄じゃないかとおっしゃっていたんですけど、僕は民芸と生活工芸はちがうものだと思っています。皆川さんがそう思う所以を知りたいです。

皆川:
さっきは直感的に言ってしまったので、改めて考えると、あえて双子にたとえるならば、生まれた時は似た情報を持っているけど、それぞれ独立して暮らしの中で時間を経ていくうちに見え方やあり方が変わっていく、みたいな感覚です。特性はそれぞれが持っているけど、大まかな部分は似ている感じがしたんです。ずっと考え続けていた言葉じゃなかったので……逆に、小林さんが民芸と生活工芸について今、どう表現されるか知りたいです。

小林:
民芸も生活工芸も、人がものを作る行為である以上、両者とも身体性というのが切り離せないものだと思うんです。民芸は身体性の関わりが、より濃いイメージがあって。痛みを伴うような。あくまでもイメージですけれど。

生活工芸は、もちろん大変なことだと思うんですけど、民芸と比べるとそこまでの負荷はないのかなと。以前、三谷さんに「生活工芸を『エアコンディションド民芸』っていうのはどうでしょう」と言ったら、「こちらはそれなりに大変なんだよ」と怒られたんですけど。

三谷:
時代ごとの重さがちがってきていると思うんです。昔と今では、服装も全然ちがう。社会全体のカジュアルさ、あるいは薄さ、そういうものがそのまま工芸に出ていると思うんですよ。漆で塗った重厚感のある梁があって、そういう昔の家と比べれば、今の暮らしはずいぶん薄っぺらになっている。だからといって昔の方がいいと言っても、しょうがない気がするんです。薄っぺらなりに豊かに生きたいじゃないですか。

小林:
カジュアル化というか、質感が失われていくことへの抗いみたいなことはあるんですかね。

三谷:
戦前にはあった人と人、ものと人との深い関わり方、それは大事なものだと思うし、それを今の薄っぺらな社会でどう回復するかということが重要だと思います。

山本:
桃山の茶碗は強くて、形はスマートですけど、民芸のものよりも強い「気」があると思うんです。

小林:
強さとは具体的に?

山本:
静かだけど、強い。たとえば織部の茶碗だったり、色茶碗だったり。そういうものですかね。

三谷:
僕は白い漆をやっていますが、漆器はもともとハレの器だから、カジュアル化した今の暮らしに、どう取り入れるか難しいけど、白の方が使いやすいかなと思って白漆にしました。漆器を使って気持ちが引き締まったり、良いなと思うことはもちろんあるけど、その比率が少なくなっている。礼装する機会が少なくなっていることと近いのかなと思うんです。

皆川:
僕は、ものを愛でる感覚と、ものがある暮らしを記憶することのちがいがあると思います。「この作家はこんな思いで、こんな技術で、こんな素晴らしいものを作ったんだ」という、ものから得る感動と、そのものがある暮らしを記憶している喜びとのちがい。たとえば三谷さんのバターケースは愛でるというより「毎日使ってうれしい」という感覚です。そこにある意匠や、古くて立派なものを素晴らしいと感じるのとは、ちがう感動があると思うんです。

小林:
ものに込められた技巧だとか、存在の希少性を愛でることではなく、ということですよね。

皆川:
そうですね。それよりも日々の暮らしを振り返ったときに、このバターケースを毎朝使っていた、という記憶をもたせてくれることのありがたさがあると思うんです。

菅野:
それはどんなものでもそうなり得ますよね。

皆川:
使い手の心のうちによると思うんですよ。僕には、それは好きだという感情や、見つけた時、出会った時の記憶がとっても大事だから。1部で「yamahon」さんに置かれたものと、ものへの思いのない場に置かれたものの値段が一緒でいいのか、という話がありましたけど、貨幣価値は一緒だけど、それがもつ記憶の度合いはまったくちがうと思う。

菅野: たとえば茶道具や古美術の世界だと、ものに対する持ち主の愛情表現としてきれいな仕覆をあつらえたり、立派な箱を作ったりします。今のお話を聞くかぎり、そうした高価な茶道具も「生活工芸」に含まれることになる。私はそれには反対です。

皆川:
骨董は生活工芸じゃない、ということですか。

菅野:
たとえば高価な茶道具です。何千万もする楽茶碗とか桃山の茶陶を、数寄者はとても大事にします。値段の問題ではありません。純粋にものが好き、たとえば寝床まで持ち込んで一緒に寝たりするほど愛したりもするわけですよ。だからといって、それらも「生活工芸」だと言ってしまうと、収拾がつかない。「なんでもあり」になってしまうと思います。

私は編集者なので、作家やギャラリーのみなさんとは考えがちがってくると思うのですが、私が考えたいのは、1990年代の終わりから2000年代にかけて「生活工芸派」の作家たち、三谷さん、安藤さん、赤木さんたちがやったこと、その意味は何だったのか、ということです。彼らの作品や活動により、たとえ少しでも社会が変化したとすれば、それはどのような変化だったのかということを、歴史的に考えたいのです。

2010年に金沢の21世紀美術館で開催された工芸の展覧会で、ガラス作家の辻和美さんが「生活工芸」という語を提示しました。私は、その言葉自体にあまり意味があるとは思っていません。符丁のようなもので、むしろ「三谷グループ」や「百草派」の方が良かったかもしれない。大事なのは名称ではなく、概念です。その概念がなかなか構築されませんでした。

「生活工芸」という名称は、「生活」も「工芸」も昔から使われている言葉で、意味するところは多様であり、相対的です。だからその字面だけで「生活工芸とは何か」という話をしても、論理的には茶道具もOK、100円ショップの器もOKとなるのは当然だし、そうした議論に意味があるとは思えません。

皆川:
僕は寝るときに大事にしている枕ですら、その人にとって日常に欠かせぬものであれば、生活工芸的だと思うんです。それが高価であったり希少であったりすると生活工芸から漏れてしまいますか。

菅野:
「生活工芸」という言葉が良くないのだと思います。私が『「生活工芸」の時代』という本や「生活工芸」に関する記事を作ることで考えようとしてきたのは、そうしたことではありません。くり返しますが、三谷さん、赤木さん、安藤さんたちがあの時代にやったことの意味です。あくまでも歴史的、個別的、一回的な出来事として考察したいと思っているのです。しかしそこで「生活工芸」という言葉を使うと、どうしてもそれ以外のこと、今回話されているような一般的な話題になってしまうので、もうこの言葉を使うのはやめようと思いました。

山本:
僕は『「生活工芸」の時代』にも書かせていただいて、生活工芸という言葉ができる10年前から三谷さんとか安藤さんとおつき合いさせていただいています。僕はその意味を探し、固定化する考えには反対でした。今はもう生活工芸という言葉をもって、次に進むべきだと思っています。

僕が三谷さんの功績として一番大きいと思っているのは、三谷さんの木の器がまず生活に入ってきて、我谷(わがた)盆のような伝統的な木の器が生活の中にどんどん入ってきたことだと思うんです。三谷さんの軽い木の器が生活に入り、重い木の器も受け入れられた。

じゃあ、我谷盆みたいな古い日本の器や道具を現代の作家が写したものは生活工芸に入るのか。そういう議論を以前にしたと思うんですけど、それは生活工芸として認めるべきだと思う。そして大衆であろうとブルジョワであろうと、器もアートも生活の中で使おうという考えが世界に広がりつつあって、そういう動きこそ生活工芸が進んでいる道だと思うんです。

三谷:
僕は、茶道具は生活工芸に入らないと思います。1990年代ぐらいから一億総中流社会といわれたベースがあって、そこから生活工芸は出てきたと思う。その中流世帯には茶道具は具体的にイメージできない。民衆あるいは市井の人々でもいいんですが、彼らの生活感覚的には理解しにくいと思うんです。

皆川:
一部の地域や文化に比べると、少なくとも今の日本はかなり贅沢ができる日常生活があるから。この生活工芸と僕らがいっているものを見たら、茶道具のように特別なものに感じる人もいるかもしれない。僕らが見えている普通の暮らしという尺度で計っていいのかということも考えられるかもしれないですね。

三谷:
世の中には飢えている人や戦争で困っている人もいます。でも、それを自分たちの生活と同じ要点で考えるのは難しいと思うんです。自分が精一杯考えられるのは、この場所にしかない。中国のこともそう。わからないところをベースにしても考えにくいですよね。実感ある生活で語るしかない。それは本当に狭いところかもしれないけれど、その狭いところで考えることが自分たちのやれることであって、それを共感として受け止めてくれる人がいれば、うれしいなということ。

菅野:
ちょっといいですか? この会場には、作家やギャラリーの方、要するにプロがたくさんいるという前提で話をしたいと思います。三谷さんがトークをクラフトフェアの土日ではなく、その前日の金曜に行なっているのは、そうした方々に聞いてほしいから、ということなので。

2部の話で、本は作り過ぎ、洋服も余っている、という話がありましたが、工芸もそうですよね。工業製品を含め、生活道具が大量生産、大量消費、大量廃棄されている現状のなかで、みなさんはさらに手工芸品を生産し、販売し続けています。そうした自らの行為に対して、疑問というか、ためらいを感じたことはないのでしょうか。

先日、北欧やロシアにくわしい骨董商と話したのですが、向こうでは食器などの生活道具は基本的に中古品を買って使っているそうです。理由は、安いし、そうしたマーケットがちゃんとあるから。もちろん階層や趣味によるのかもしれません。しかし、日本でも江戸時代はかなり高率のリサイクル社会でした。鎖国という事情があったとはいえ、それで経済をまわしていた。現代は本や服に限らず、生活道具も明らかに作られすぎている時代です。そのうえでさらに新たにものを作り、売り続けることを、みなさん自身はどう考えているのでしょう。 

三谷:
本当にいるのか、いらないのか、そこはみんなそれぞれ生活の中で考えてやっていると思うんですよ。僕は小屋で住むなかで一番それを感じました。本当にいるものは何か、いらないものは何かを、小さい空間で考えながら暮らしていました。おそらく、自分の生活の中で必要でないものを作らないようにしている人たちがたくさんいると思います。

竹俣:
僕は20数年間ものを作ることに、ためらいを感じたことはないです。自分が作るのは100パーセント物欲からです。まず自分が欲しいもの、使いたいものを考えて、デザインや製造方法を考えています。ためらいがないかと、はじめて聞かれました。

山本:
僕もためらったことはないです。たとえば粘土をこねて作るとか、縄文時代から変わらない作り方が減っていると思うので、僕は絶やされないことを心配しています。作り過ぎというよりは、なくなっていくと思っているので。

猿山:
化学合成のもの、核融合や核分裂でできるもの、遺伝子操作によるもの。そういうものが開発された一番のメリットは、安く大量にできるからです。そこを考え直すべきだと思う。

江戸時代にほとんどのものがリサイクルされていたというのは、その辺に捨てても肥やしになったわけですよ。現代でそういうもの作りをすると、当然高いものになる。そういうもの作りを実現するためには、高い技術と経験が必要になる。さらに、それを買って使いこなすことや、これが大事だという意識の改革も必要です。

長く使えばどっちが得か。環境に負荷をかけることで、どれだけ自分たちの大事なものを失っているのか。ネイティブアメリカンの7世代先を考えてきたという話がありますが、そういうことを日本が、みんなが積極的に考える時なんじゃないでしょうか。

技術の継承がないと、今まで積み重ねてきたものを失ってしまうんです。絶えたものを復活させるには、莫大な労力が必要です。そういう意味で、もの作りを否定はしないし、ある部分では強く否定します。

森岡:
ためらうとしたら環境問題に結びついていると思うんです。一方で、ものを作る喜びもある。ものごとにはなんでも良い面と悪い面がありますが、僕は良い面を見ていきたいなと考えて商売をしています。

小林:
自分は、ファストファッション、ファスト雑貨、ファスト生活用品へのアンチとして商売をしてる心づもりなので、ためらうことはないです。ためらいを感じるようなものは取り扱わないようにしています。

菅野:
悪貨は良貨を、の逆で、「良貨で悪貨を駆逐する」といった考えはないのですか。良いものを作るだけではなく、悪いものを減らしていくという、社会運動的な意思は?

小林:
まずは日々、店を営業してものを紹介していく。あるいは、絶版になっちゃいましたけど『あたらしい日用品』という本で発信したり、即効性はないけど時間をかけて、せっかくならこういうものを選んだ方がいいんじゃないかと、啓蒙というと偉そうですけれど、そういうことを日々の生業としてやっていますが、もっと可視化しやすいアクションに移すことは、しないと決めてはいないですし、自分に余裕があればやりたいと思ってはいます。

皆川:
長いようで短い時間でございました。これはどうしても言い残しておきたいということはございますでしょうか。

会場から:
「良貨で悪貨を」というお話があったんですが、気分が悪いものがあるからこそ、気分が良いものがあることがわかるし、ファストではないものがあるからこそ、ファストなものもある。駆逐するのではなく、ファストなものとの関係性をどう取っていくかを考えられるといいのかなと思いました。

小林:
ファストなものが成り立っている裏で誰かが泣いているかもしれないと考えると、ない方がいいかなとは思います。僕自身、そういうものはあんまり買わないようにしています。

皆川:
そろそろお時間です。来年に向けて課題が増えて、来年も楽しみになるということにして、大変申し訳ないんですけれども、この辺でお開きにさせていただけないでしょうか。

会場:(拍手)

皆川:
おいしい夕食を楽しまれてください。

会場:(笑)


「すぐそばの工芸・考」トークイベントの記録

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井出幸亮 + 猿山修 + 森岡督行 + 皆川明

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井出幸亮 + 猿山修 + 森岡督行 + 皆川明

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